明治14年(1881年)、与謝野鉄幹の父は本願寺鹿児島別院加治木説教所の僧侶として赴任。9歳の鉄幹も父に従い1年余りを加治木で過ごした。 |
ましてわが良人は、小學時代を鹿兒嶋と加治木とに送りしかば、なつかしき第二の故郷として、四十幾年のあいだ、しばしば夢にも見て、如何で身のいとまあらば再び彼國を訪はんと、常に言へり。
「霧嶋の歌」の初に |
老の身の相見て嬉しをさなくて加治木の寺に植ゑしたぶの木 | 寛 |
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加治木なる五つの峰の波形の女めくこそあはれなりけり | 晶子 |
与謝野鉄幹の歌 |
わが父の名を知る人に逢ふことは兄弟のごとなつかしきかな |
わが父が加治木に住みし六十ぢにも年ちかづきて加治木には来ぬ |
をさなくて紙鉄砲をつくりたる金竹(きんちく)いまは杖にきらまし |
見上げつつ夢かぞと思ふをさなくて加治木の寺に植ゑしたぶの木 |
与謝野晶子の歌 |
鹿兒嶋へ夕日を追ひて行くやうに車やるなり加治木の峠 |