2021年岩 手

石川啄木記念館〜渋民小学校旧校舎〜
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盛岡市渋民字渋民に石川啄木記念館(HP)がある。


昭和45年(1970年)、開館。

昭和61年(1986年)5月、新館開設。

一握の砂より 啄木自筆の書


東海の
 小島の磯の
    白砂に
われ泣きぬれて
  蟹とたはむる

入館料は300円。

内部は撮影禁止。

明治39年(1906年)3月4日、石川啄木は好摩駅から渋民へ。

凍てついて横辷りする雪路を一里。町の東側の、南端から十軒目、斎藤方の表座敷が乃ち此の我が一家当分の住居なので。


啄木と子供達のブロンズ像


平成8年(1996年)9月、設置。原型作者は中村晋也。黒谷美術作成。

 十三日に村役場へ出頭、十一日附の、「渋民尋常高等小学校尋常科代用教員を命ず、但し月給八円支給」といふ辞令を受け、翌十四日(土)から尋常科第二学年の教壇に立つことに成つた。我が自伝が、この日、また新らしい色彩に染められた。


渋民小学校旧校舎


 明治17年10月に渋民村字渋民の・愛宕神社の下に、渋民小学校が650円で造られた。啄木は明治24年この学校に入学して4年間勉学し、その後明治39年4月から一年間、日本一の代用教員として教鞭をとった思い出の校舎である。 昭和42年7月、松内より現在地に移し復元した。

盛岡市指定文化財

 旧渋民尋常小学校は、明治17年(1884年)、村民の寄付により旧渋民村愛宕の愛宕神杜脇に建設されました。建設当時の校舎は、明治17年5月に提出された新築願書によると、木造2階建てで、1階には職員入り口、職員室、廊下、教室があり、2階は廊下をはさんで3教室が配置されていました。

 大正2年(1913年)、松内分教場として移築され,約五50年間使用された後、松内地区公民館として使われ、昭和42年(1967年)、老朽化により取り壊されることとなりましたが、石川啄木の母校であり、代用教員時代に教鞭をとったこともあるゆかりの校舎であることから、石川啄木記念館敷地内に移築保存されました。

 現在の建物は、2度の移転や改修が行なわれましたが、柾屋根造り、連子格子、囲炉裏のある溜まり場など明治前期の面影が残されており、現存する学校校舎としては、県内で最も古い建物の一つです。

盛岡市教育委員会

石川啄木の歌碑


時として、
 あらん限りの声を出し、
唱歌をうたふ子をほめてみる。

『悲しき玩具』収録の歌である。

石川節子の歌碑


この舟は海に似る瞳(め)の君のせて

      白帆に紅(あけ)の帆章(ほじるし)したり

旧斉藤家


盛岡市指定文化財

 斉藤家は江戸時代末期、奥州道中渋民宿駅の南側に建てられた町屋でした。

 建物構造は、木造一部2階建ての妻入り直屋で、屋根は 兜形に軒先を切り落とした寄せ棟となっています。建物規模は、間口3間半(約6.8m)、奥行き8間半(約18m)と細長く1階の片側に表から裏にぬける1間幅(約1.9m)の通り土間を設けています。

 部屋の配置は、表側から床の間のついた座敷、常居、納戸、台所、一番奥には馬屋があり、表側の2階部分には10畳の板の間を設け、表側に張り出した縁は格子戸をはずして使いました。

 斉藤家は、明治39年(1906年)3月から約1年間、石川啄木が渋民尋常小学校代用教員時代に家族とともに間借りしていた建物であることから、昭和45年(1970年)に石川啄木記念館敷地内に移築保存されました。

 小説「雲は天才である」・「葬列」などの作品はこの家で生まれました。

盛岡市教育委員会

石川啄木の宿家

 啄木が明治39年から同40年5月まで日本一の代用教員を自負して、母校渋民小学校の教壇に立った頃に生活していた借家(斉藤佐蔵氏宅)である。

 この2階で書いた小説には、かの有名な「雲は天才である」や「面影」などがある。

 長女京子が節子夫人の実家(堀合家)で生れたことを知り、「予が若きお父さんとなりたるなり。」「天地に満つるは愛なり。」「立っても臥ても居られぬ様なりき。」などの喜びのさまを日誌に残しているのも、この家である。

 また啄木自身が自ら漂泊の旅と称している北海道の生活に旅立ったのもこの家からであった。

宝徳寺へ。

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