2021年岩 手

新渡戸稲造生誕の地〜英知の磁針〜
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賢治清水から下の橋を渡ると、盛岡市下ノ橋町。

下ノ橋町に「新渡戸稲造生誕の地」があった。

 新渡戸稲造は、文久2年(1862年)南部藩士新渡戸十次郎の三男としてこの地に生まれた。父は青森県三本木野開拓の父と仰がれた人であるが、稲造は父の開拓事業にちなみ最初稲之助と称した。稲造は、農政学を専攻し農学博士、法学博士の学位を受け、札幌農学校教授、京都帝国大学教授、第一高等学校長、東京帝国大学教授、東京女子大学長として青年の教育にあたった。また行政官として台湾の開発にあたり、国際人として欧米に活躍した。稲造は常に東西文明の融合を理想とし「太平洋のかけ橋たらん」と志し、第一次世界大戦後は国際連盟事務局次長に選任され、その公正なる言動は「連盟の良心」と称せられるようになった。昭和8年10月15日(日本時間10月16日)、71歳で多くの人々に惜しまれつつ、ビクトリア市で亡くなった。稲造の没後50年を祈念して様々な行事が行われたのを機に、盛岡市、ビクトリア市の間で友好・交流の機運が盛り上がり、昭和60年5月23日(現地時間)、ビクトリア市で姉妹都市提携の盟約書が取り交わされた。

昭和10年(1935年)、朝倉文夫は新渡戸稲造の多摩墓地を建設。

新渡戸稲造


昭和58年(1983年)10月、盛岡市建立。朝倉文夫作。

英知の磁針


この青い地球には億万の人がいて
一生懸命に生きている
黙々と働き 静かに死んでいく人も多い
日が昇り また沈むように
すべては流れる銀河の星だ
その中のひときわ美しい星がここにある
八百光年の彼方にあって
凜と北を指す北極星のように
紛れることのない英知の磁針
今や世界は一つにつながり
人工の星が空を駈ける
この時こそ降り仰がなければならない
天心の星
理想は脈々として国々を結び
その深い献身と愛が地球を救う
迷うことなく進む道標として
我らはここに新渡戸稲造の像を刻み
凝視し 誓う
平和へのたゆむことなき前進を

金田一京助ゆかりの地(下橋中学校)へ。

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