新渡戸稲造は、文久2年(1862年)南部藩士新渡戸十次郎の三男としてこの地に生まれた。父は青森県三本木野開拓の父と仰がれた人であるが、稲造は父の開拓事業にちなみ最初稲之助と称した。稲造は、農政学を専攻し農学博士、法学博士の学位を受け、札幌農学校教授、京都帝国大学教授、第一高等学校長、東京帝国大学教授、東京女子大学長として青年の教育にあたった。また行政官として台湾の開発にあたり、国際人として欧米に活躍した。稲造は常に東西文明の融合を理想とし「太平洋のかけ橋たらん」と志し、第一次世界大戦後は国際連盟事務局次長に選任され、その公正なる言動は「連盟の良心」と称せられるようになった。昭和8年10月15日(日本時間10月16日)、71歳で多くの人々に惜しまれつつ、ビクトリア市で亡くなった。稲造の没後50年を祈念して様々な行事が行われたのを機に、盛岡市、ビクトリア市の間で友好・交流の機運が盛り上がり、昭和60年5月23日(現地時間)、ビクトリア市で姉妹都市提携の盟約書が取り交わされた。 |
この青い地球には億万の人がいて 一生懸命に生きている 黙々と働き 静かに死んでいく人も多い 日が昇り また沈むように すべては流れる銀河の星だ その中のひときわ美しい星がここにある 八百光年の彼方にあって 凜と北を指す北極星のように 紛れることのない英知の磁針 今や世界は一つにつながり 人工の星が空を駈ける この時こそ降り仰がなければならない 天心の星 理想は脈々として国々を結び その深い献身と愛が地球を救う 迷うことなく進む道標として 我らはここに新渡戸稲造の像を刻み 凝視し 誓う 平和へのたゆむことなき前進を |