2021年岩 手

賢治清水〜下の橋〜
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盛岡市大沢川原に「賢治清水」がある。

宮沢賢治ゆかりの地

 宮沢賢治(明治29年(1896年)〜昭和8年(1933年))は、岩手県裨貫群里川口(現花巻市)で生まれた。盛岡中学校(現盛岡一高)、盛岡高等農林学校(現岩手大学農学部)時代の多感な青春時代を盛岡で過ごしている。

 大正6年(1917年)、賢治が高等農林3年生のとき、盛岡中学校に入学することになった弟とともに下の橋のたもとの玉井家に下宿した。今では、当時をしのぶ井戸だけがのこされている。

 下の橋は、南部氏が盛岡に城を築き、城下町をつくったとき、河南地区を結ぶ重要な橋としてつくられ、欄干には歴史を感じさせる擬宝珠がついている。かつては、この橋が、盛岡の初夏の風物詩チャグチャグ馬コの馬が渡る道筋で、賢治の方言短歌にも歌われている。

盛岡市・盛岡市観光協会

宮沢賢治詩碑


 ちやんがちやがうまこ

夜明げには
まだ間あるのに
下のはし
ちやんがちゃがうまこ見さ出はたひと。

ほんのぴゃこ
夜明げががった雲のいろ
ちゃんがちゃがうまこ 橋渡て來る。

いしょけめに
ちゃがちゃがうまこはせでげば
夜明げの為が
泣くだぁぃよな氣もす。

下のはし
ちゃがちゃがうまこ見さ出はた
みんなのながさ
おどともまざり

平成11年(1999年)1月、建立。宮澤賢治自筆。

下の橋擬宝珠


 慶長3年(1598年),豊臣秀吉から盛岡城の築城を正式認可された南部信直は、築城普請と共に市街整備の一歩として城下のほぼ中央を流れる中津川に3橋を架設した。

 慶長14年(1609年)に上ノ橋、同16年(1611年)に中ノ橋、翌17年(1612年)には下ノ橋が完成し、上ノ橋と中ノ橋に利直在銘の青銅擬宝珠が取り付けられた。

 橋は、その後幾度か大洪水のために落橋し修復架橋されたが、その時に流失した擬宝珠もあり、寛文(1661−1673)と享保(1716−1736)年間にそれぞれ復元されたと推定されている。なお、現在の下ノ橋の擬宝珠は、明治43年(1910年)の大洪水後、中ノ橋が洋式架橋されたことから、大正元年(1912年)11月に中ノ橋から移されたもので、上ノ橋の擬宝珠と同様藩政期の文化を表象するものである。

 南部家所伝によると、南部家第十二代当主遠江守政行が京都在番中に勅許を得て、加茂川三条大橋の擬宝珠を写し、これを領国三戸城下の熊原川の橋につけ黄金橋と称したという。慶長年中の城下建設にあたって、この擬宝珠を鋳直して中津川の上ノ橋・中ノ橋2橋に取り付けたものである。

盛岡市教育委員会

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