斎藤家は江戸時代初期から名主役を務めていた家柄で、代々徳左衛門を称していた。
宝暦4年(1754年)3月、白井鳥酔は筑波山詣の途上斎藤家に滞在して将門の遺跡を訪ねている。
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ことし甲戌春三月筑波山詣の頃総陽相馬郡守谷の郷斎藤氏の宅に淹流す
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小林一茶は守谷では西林寺を宿とし、斎藤家にもやって来て句会を開いているそうだ。
文化14年(1817年)8月24日、国学者高田与清は齋藤徳左衛門を訪れている。
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むらぎみ齋藤徳左衛門が家をとぶらひしに、あるじよろこびて、俳諧師鳥醉がこの里に遊びしをりしるせし記(ふみ)などとう出て見せたり。
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今宵は文伯が家にやどる。鶴老上人師・齋藤氏相ぐしておはしたれば、よもすがら宇治大納言物語のこうぜちして人々丑の四などいふころにねぬ。
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天保11年(1840年)4月2日、若雨没。
若雨の句
十人が十色に寝たる厚さかな
梟も夜寒をなくやうらの山
思ふよりいふより早く積る雪
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若雨の子孫斎藤隆三氏は明治8年(1875年)生まれ。東京帝国大学在学中に郷土守谷の歴史をまとめた『守谷志』を刊行。
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昭和28年(1953年)、西林寺に一茶の句碑を建立。
行くとしや空の名残りを守谷まで
昭和36年(1961年)、86歳で没。