『奥の細道』 〜東北〜


〜羽黒山五重塔〜

「史跡芭蕉乗船之地」から、さらに国道47号(北羽前街道)を行く。

酒田まで行くと戻るのが大変だから、国道345号で鶴岡に行くことにする。

 草薙温泉を過ぎ、標識を見て左折したが、そこは国道345号ではなく、県道45号立川羽黒山線だった。


 最上川の支流、立谷沢(たちやざわ)川に沿って県道45号立川羽黒山線を行くと、羽黒山の裏に出る。


ここまで来たら羽黒山の五重塔を見ていこう。

 羽黒山随神門から石段を下りていく。石段は半ば雪に埋もれている。凍っているところもあり、転んでしまった。

羽黒山五重塔


 元禄2年(1689年)6月3日(陽暦7月19日)、本合海(もとあいかい)で乗船した芭蕉は、清川で最上川の舟下りを終え、上陸した。出羽三山神社に詣でるのに、羽黒山の裏から行くことはあるまい。おそらく県道46号羽黒立川線の方を通ったのであろう。

 元禄9年(1696年)6月15日、天野桃隣は羽黒山五重塔を見ている。

 遙に見れば五重の塔、是は鶴ヶ岡城主建立たり。別当は若王(やくわう)寺、高山の岨(そば)を請ておびたゞしき一構、風景いふに及ず。


 享保元年(1716年)7月7日、稲津祇空は常盤潭北と羽黒権現に参詣している。

   羽黒権現にまいる七月七日

懸こしに見よかさゝきの羽くろ山


 享保12年(1727年)、魯九は北陸から羽黒山に詣でる。

   羽黒詣で

花はいつ先常盤木の羽黒山


 延享4年(1747年)6月1日、横田柳几と武藤白尼は羽黒山を訪れた。

 羽黒山

下闇をあつめて凄し羽黒山
   几


 宝暦5年(1755年)4月13日、南嶺庵梅至は羽黒山を訪れている。

羽州羽黒山に詣す一山霧に隠れ物のあやちもわからハこそ群立杉の林一里はかり過て不動瀧二王門石壇を十五六ヶ所を上り下りて本堂の前に至る。

青嵐立日はあれと胸の雲


 嘉永4年(1851年)頃、桑折の俳僧一如庵遜阿は羽黒山を訪れている。

羽黒宝前 古記曰、草創推古帝勅宣、寂光八大寺建立寄附、五重塔鶴岡城前主造立也

あなうれしあふ凉し手に掬ふ草

日の夏も木がくれけらし羽黒山


 明和6年(1769年)5月16日、蝶羅は嵐亭と共に羽黒山に登り句を詠んでいる。

   翌十六日羽黒登山

雲掃て梢すゞしき羽黒山
  嵐亭

聞馴ぬ蝉の行こと葉
  蝶羅


 寛政3年(1791年)5月13日、鶴田卓池は湯殿山に赴き、月山に登り、羽黒山に下っている。

 霍が岡より湯殿山の先立にいざなはれて、大網村の注連寺にやどる。

   篠の子の歯ぎれもうれし夜明空

      三山順礼

   湯けぶりの泪をさそふ湯殿哉

   夏寒し雲に身を置く月の山

   有とある木立まばゆし羽ぐろ山


 明治40年(1907年)10月28日、河東碧梧桐は羽黒山を訪れた。

 祓川の橋を渡ると左手に五重の塔がある。保存が行届いておって、柱もタル木も一々よく洗うてある。幾度の兵燹(へいせん)にこればかりはよく残ったものである、というを始めに、一体この山の衆徒はいわゆる悪法師の類で、武藤氏時代から猛威を逞しゅうした結果、最上氏などとは屡々戦うた、その他この山を攻め落そうとした者も沢山あったけれども、容易に落ちなかった、それにも関らず天宥の改宗騒ぎで、内間の争いもしたので、三千坊の旧観は次第に廃滅した、と古夢子が語る。


 昭和2年(1927年)10月、小杉未醒は「奥の細道」を歩いて、羽黒山を訪れている。

 門を入れば坂となつて下つて谷川に擬宝珠の橋がかゝり、右なる崖に瀧落つ、第二の門五重の塔、杉の木は生ひ茂り神さび、磴道(とうどう)に苔深く次第に登り坂、


 昭和39年(1964年)、水原秋桜子は羽黒山を訪れている。

   羽黒山

杉の芽やいま夕立のすぎし搭

『殉教』

 昭和40年(1965年)、山口誓子は羽黒山を訪れている。

   羽黒山

降る雪に貝吹く頬をふくらませ

『一隅』

羽黒山から県道47号立川羽黒山線で鶴岡へ。

 元禄2年(1689年)6月10日(陽暦7月26日)、芭蕉は羽黒を立ち、鶴岡の城下へ。13日、川舟に乗って、酒田の港に下る。

 羽黒を立て、鶴が岡の城下、長山氏重行と云物のふの家にむかへられて、俳諧一巻有。左吉も共に送りぬ。

あつみ山や吹浦かけて夕涼み

暑き日を海にいれたり最上川

鶴岡から国道112号で湯野浜温泉へ。


風が強く、日本海は荒れていた。写真を撮る気にもならなかった。

湯野浜温泉に公衆浴湯があった。入る気もしなかった。

鶴岡に戻り、山形自動車道に入る。

湯殿山の辺りで、本格的な雪になった。

山形蔵王PAへ。

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