『奥の細道』 〜東北〜


〜史跡芭蕉乗船之地〜

 瀬見温泉から国道47号(北羽前街道)を行き新庄の市街地を過ぎると、「史跡芭蕉乗船之地」という案内がある。

 本合海(もとあいかい)大橋の手前で国道47号を左折して国道458に入るとすぐに、「史跡芭蕉乗船之地」があった。


説明文が書いてある。

 本合海は、陸路のない時代に内陸と庄内を結ぶ最上川船運の重要な中継地として栄えました。

 大石田を後にした芭蕉、曽良一行は新庄の風流亭に2泊し、地元の俳人たちと俳諧を楽しみ名句を残しています。

 元禄2年(1689年)6月3日、主従一行は、松本村まで見送りに来た地元の俳人たちと別れを惜しみ、本合海の船つき場へとめざし、この地より舟上の人となりました。

旧暦6月3日は新暦の7月19日である。

最上川


ここから清川まで下った。

 最上川のらんと、大石田と云所に日和を待。爰に古き俳諧の種こぼれて、忘れぬ花のむかしをしたひ、蘆角一声の心をやはらげ、此道にさぐりあしゝて、新古ふた道にふみまよふといへども、みちしるべする人しなければと、わりなき一巻残しぬ。このたびの風流、ここに至れり。

○三日 天気吉。新庄ヲ立、一リ半、元合海。次良兵へ方へ甚兵へ方 より状添ル。大石田平右衛門方よりも状遣ス。船、才覚シテノスル(合海より禅僧二人同船、清川ニテ別ル。毒海チナミ有)。

『曽良随行日記』

由緒が書かれた碑は、半ば雪に埋もれて読めない。


 元禄2年旧6月3日、新庄の俳士や大石田の一栄等からそれぞれの添状あり舟宿でもあったが、次郎兵ヱと言う者を煩し2人の禅僧も一行に加え、此地より船中の人となり出羽三山へと向う。彼の有名な「五月雨をあつめて早し最上川」の句は、この舟旅で詠れたものである。

芭蕉の句碑がある。


五月雨を集めて早し最上川

芭蕉と曽良の像があった。


後ろに見える青いものは本合海大橋である。

どこを2人で眺めているのだろう。

芭蕉像だけを撮ってみる。


涼しさや行先々の最上川

『芭蕉翁句解参考』(月院社何丸)

 宝暦2年(1752年)、和知風光は最上川で句を詠んでいる。

   最上川

取はつす蕪菜も見たり最上川

『宗祇戻』(風光撰)

 安永2年(1773年)、加舎白雄は古口から最上川を舟で下った。

最上川に舟をうかぶ

 のぼればくだるいなぶねのとやまとうたのえんなるには引かへて秋水のすさまじさはいはんかたなく一鳥の声を両岸の猿の声に聞なしつゝ五百重山たちまちあとさまになるにおどろかれ侍りて

加舎白雄「奥羽紀行」

のぼればくだるいなぶねの」は『古今和歌集』の東歌。

もがみ川のぼればくだるいな舟のいなにはあらずこの月ばかり

『古今和歌集』(第20巻)

   五百重山たちまちあとに
   なるにおとろかれて

樫鳥(かしどり)の声おとすなり最上川
   白雄

※「かしどり」は「判」の下に「鳥」。

『黒祢宜』

樫鳥(かしどり)はカケスの異名。秋の季語。

 明治30年(1897年)10月19日、幸田露伴は酒田を立ち本合海の宿に泊まる。

十九日、酒田を立ちて最上川を渡る。茫々たる蘆荻人をも車をも埋めんとす。余目、狩川を過ぎて清川に昼餉したゝむ。こゝは川近きところにして、蓆帆張れる川舟のいと大きなるが幾艘となく過ぐるを見る。両岸は山迫りて、流れは水深う川幅はいと広し。上れば下る稻舟の歌も思ひ合はされて、舟揖の便りよきこと悦ぶべし。

古口といふところより夜に入りて、ぬぱ玉まの闇のあやなきに最上川の渡頭を渡り、本合海の宿に一夜の枕を定む。寂びたる間の宿にして旅舎も清げならず、我等を請じ入れたる一室の中には斑狗(ぶちいぬ)の皮を敷き満てたるなど、款待(もてし)ごゝろにはあるべけれど却つてあさましう見えぬ。

「遊行雑記」

明治40年10月12日、河東碧梧桐は本合海から最上川を下った。

 本合海に舟を寄す

鍬形の流れに星座紅葉かな


羽黒山五重塔へ。

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