蚶潟より又酒田へ取て返しけれは例の人々待うけもてはやされかの青楼の風流なと見物させられ文月六日袖か浦の名残を引わかるゝとき
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明和6年(1769年)5月、蝶羅は象潟からの帰途、日和山を訪れ句を詠んでいる。
袖の浦の風色を見せんと、日和山へいざなハ
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れて、
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誰とめた風のかほりぞ袖の浦
| 蝶羅
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常世田長翠の句碑があった。
人の柳うらやましくもなりにけり
明治26年(1893年)8月9日、正岡子規は清川で上陸、陸路酒田を訪れた。
道々茶屋に憩ふて茶を乞ふ。茶も湯も無しといふ。風俗の質素なること知るべし。歩む事五里再び最上川を渡り、限りなき蘆原の中道辿りて酒田に達す。名物は婦女の肌理細かなる處にありといふ。夜散歩して市街を見る。紅燈緑酒客を招くの家數十戸檐(のき)をならぶ。毬燈(きうとう)高く見ゆる處にしたひ行けば、翠松館といふ。松林の間にいくつとなくさゝやかなる小屋を掛けて納涼の処とす。此處の家古風の高燈籠を點ず。
明治40年(1907年)10月12日、河東碧梧桐は清川で上陸し、人力車で酒田に着く。
清川上陸
遽(には)か雨も冬の近さや西風も
直に車を命ず
うそ寒み車売らるゝ途中哉
酒田着
春来んと言ひしをうたゝ夜寒かな(羽後酒田にて)
23日、碧梧桐は「はて知らずの記」について書いている。
果知らずの記を見ると、子規子は最上川の船をやはり清川に捨てて、それから徒歩で酒田に着いた。
歩む事五里再び最上川を渡り、限りなき芦原の中道辿りて酒田に達す。(中略)夜散歩して市街を見る。紅燈緑酒客を招くの家数十戸檐(のき)をならぶ。毬燈高く見ゆる処にしたひ行けば、翠松館といふ。松林の間にいくつとなくさゝやかなる小屋を掛けて納涼の処とす
とある。最上川を渡る、とあるのは今の新堀(にいぼり)という処の渡しで、まだ現在の両羽橋という大橋架らぬ時分の渡船であった。両羽橋は新堀から三十町ばかり下流にある。限りなき芦原はなおその面影を止めて、道の左右ただ茫々、すでに酒田の入口にありながら、町はいずこぞと疑わしめるほどである。が、果知らずの記当時に比べれば、順次田畑に墾(ひら)かれたらしく、蘆の中に飛び飛び麦の萌えた畑や、黍殻を抜きとった畝(あぜ)の跡などが見える。
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