『奥の細道』

〜素盞雄神社〜
行春や鳥啼魚の目はなみた
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元禄2年(1689年)3月27日(新暦5月16日)に深川の採荼庵すなわち「杉風が別墅」を舟で出発した芭蕉は、千住で舟をあがった。「曽良随行日記」によれば、巳ノ下尅すなわち午前10時過ぎである。 |

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虚子は「恰度、お釈迦様の涅槃の図に、いろんな動物が涙を流して悲しんでゐるのと同じやうに、何もかも別れを惜しんでゐる、といふ風に見ればよからう」といっているそうだ。 文政3年(1820年)10月12日の芭蕉忌に「松尾芭蕉奥の細道矢立初めの碑」が建てられた。 |
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碑面の下部に芭蕉座像が刻まれているが、「関谷の巣兆」と呼ばれた建部巣兆の筆。巣兆は加舎白雄門の俳人で、成美・道彦とともに江戸の三大家といわれた人である。鵬斎の妻は巣兆の姉妹。 |
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武州千住宿 牛頭天王 境内 |
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千寿といふ所にて船をあかれは、前途三千里のおもひ胸にふさかりて幻のちまたに離別の泪をそゝく |
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行春や鳥啼魚の目はなみた はせを翁 碑陰に 文政三庚申十月十二日 十日庵一雨 燕市 佐可和幸次郎書 |
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近くの素盞雄神社に行く。古い銀杏が梢はもう枯れて、惨憺たる姿である。その根方に二メートルほどの句碑が建っている。 行春や鳥啼魚の目は泪 と句を刻んだもの、上部と中央が剥落してしまっていた。「文政三年鵬斎老人書」とある。あの狷介だった亀田鵬斎の手である。 碑の前に立って落葉を浴びている中にふと遠い頃詠んだ芭蕉忌の句を思い起した。 時雨忌や芭蕉に残す十五年 楸邨 この句を詠んだときは芭蕉歿年五十一歳にまだ十五年を残していたはずだ。今はもう「芭蕉を越ゆる十五年」にさえもあまるのである。 |
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南千住警察署の前で自動車が停っていたとき、私は直ぐ左手に素盞雄神社を見つけた。訪ねて来た芭蕉の句碑がその神社にあるのである。 南面する社殿の東側、大きな銀杏の樹下にその句碑があった。 芭蕉の座像を彫り、その上に「奥の細道」の一節が記されているが、句は るや鳥啼魚の目ハなみだ としか読めぬ。「行くは」が剥落している。上下に剥落がある。 書は亀田鵬斎。鵬斎の名を私は良寛と結びつけて記憶している。即ち「江戸の人亀田鵬斎北越に遊び、良寛の書を観て大に驚き」「曰く我れ草法に於て又一格を長ずと」 「草書を以て天下に名ある者」だったかも知れぬが、この句碑の鵬斎の書はぬらくらしていて面白くない。良寛の書を見て大いに驚いたのは当然だ。文政三年の建立。
『句碑をたずねて』(奥の細道) |

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徳川家康が関東に入国したのは天正18年(1590年)の8月。それから4年後のことである。隅田川の橋の中では一番先に架けられた。千住大橋に続いて2番目に架けられたのは両国橋である。 |
