同所平野町にあり。俳諧師杉風子の庵室なり。
杉風本国は参州にして杉山氏なり。
鯉屋と唱へ、大江戸の小田原町に住んで魚售(なや)たり。後隠栖して一元と号す。(衰翁・衰杖等の号あり。)常に俳諧を好み、檀林風を慕ひ、のち芭蕉翁を師として、この筵に遊ぶ事凡そ六十年、翁常に興ぜられて云く、去来は西三十三箇国、杉風は東三十三箇国の俳諧奉行なりと。(かばかりのこの道の達人なりしなり。杉風一に芭蕉庵の号ありしが、後桃青翁にゆづれり。その旧地は次の芭蕉庵の条下に詳なり。享保十七年壬子六月十三日八十六歳にして沒せり。西本願寺の中成勝寺に塔す。)
『杉風句集』
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予閑居採荼庵、それがかきねに秋萩をうつしうゑて、
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初秋の風ほのかに露おきわたしたるゆふべ
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白露もこぼれぬ萩のうねりかな
| はせを
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このあはれにひかれて
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萩うゑてひとり見ならふやま路かな
| 杉風
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元禄2年、「奥の細道」の旅はこの採荼庵から出立した。
採荼庵跡に芭蕉像がある。

元禄2年(1689年)3月27日(新暦5月16日)、芭蕉は旅立った。
ところが曽良は3月20日と書いている。
巳三月廿日 日出、深川出船。巳ノ下尅 千住二揚ル。
『曽良随行日記』 |
成城大学の尾形仂(つとむ)教授は猿ヶ京温泉(群馬)に1泊して三国路紀行文学館を訪れ、3月23日付の岐阜の俳人安川落梧宛書簡を目にした。三国路紀行文学館の館長は「猿ヶ京ホテル」の女将である。
書簡には、次のように書かれていた。
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野生、とし明け候へば又々たびごこちそぞろになりて、松島一見のおもひやまず、此廿六日江上(こうしょう)を立ち出で候。みちのく・三越路(みこしじ)の風流佳人もあれかしとのみに候。
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紀州藩の医師石橋生庵の日記によると、23日から25日まで雨天つづきだったそうだ。「芭蕉は天候を考慮して26日の出発予定を1日延ばして27日に出発したのだろう。」『曽良随行日記』の「巳三月廿日」は「『七』の字を書き落としたものと単純に考えていい。」と尾形仂教授は書いている。
だが、3月20日に何らかの事情で曽良が一人で深川を離れ、7日後に千住で芭蕉と落ち合ったと考えることも出来る。
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また書簡は、次のように続いている。
はるけき旅寝の空をおもふにも、心に障らんものいかがと、まづ衣更着(きさらぎ)末草庵を人にゆづる。
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「住る方」すなわち芭蕉庵を人に譲ったのは2月末ということである。芭蕉が「奥の細道」に旅立ったのは3月27日。この間、芭蕉は何をしていたのだろう。
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臨川寺へ
