2017年福 岡

西徳寺〜林芙美子滞在地記念文学碑〜
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直方市山部の高台に西徳寺という寺がある。

山 門


 直方市指定有形文化財

西徳寺山門

 西徳寺は浄土真宗本願寺派に属し、筑前名島城主小早川秀秋の臣篠田次郎兵衛重英の開基である。

 重英は出家して西徳是照と称して草庵を結んで専修念仏の業を修める。

 寛永5年(1628年)三世清順の時「西徳寺」という寺号を許された。

 御舘山城主黒田隆政公は当寺の本堂を建立し、この寺を准菩提寺とした。

 寛永15年(1638年)島原の乱で出陣の際は御舘山城の第二砦となり、ここで出陣の報告祭があった。

 また、当寺には福岡県指定有形文化財の梵鐘一口あり、江戸初期の鐘でその鋳造者は不明であるが銘は福岡藩の儒学者貝原益軒であり、福岡城の楼鐘であった。

 なを、当寺の山門は直方還付(1720年)の節に城内の横門を寄進されたものである。

鐘 楼


     放浪記以前

 私は北九州の或る小学校で、こんな歌を習った事があった。

   更けゆく秋の夜 旅の空の
   侘しき思いに 一人なやむ
   恋いしや古里 なつかし父母

 私は宿命的に放浪者である。私は古里を持たない。父は四国の伊予の人間で、太物(ふともの)の行商人であった。母は、九州の桜島の温泉宿の娘である。

『放浪記』

鐘楼の左手に林芙美子滞在地記念文学碑があった。


梟と真珠と木賃宿

定まった故郷をもたない私は
きまったふる里の家をもたない私は
木賃宿を一生の古巣としている
雑草のやうな群達の中に
私は一本の草に育まれて来た

平成5年(1993年)5月、建立。

 本碑は、林芙美子の自伝的小説『放浪記』に一家が一夏をすごしたとある直方の木賃宿のモデル「商人宿・入口屋」の子孫により建てられた。

 碑によれば、林芙美子が直方に滞在した大正4年(1915年)当時の明神町(現神正町に入口屋という商人宿があり、馬による運送業を兼ねていた。当時、主人栗原末吉の長女ヤエノは芙美子の3歳年上であったので、芙美子は「ヤエ姉ちゃん」と慕い、一緒に遊んだ仲という。

 ヤエノの回想では、芙美子は手甲脚絆姿で知古芝原にあった「新出渡し」を渡り、小屋瀬・中間方面に辻占を売り歩いたという。そのほか、『放浪記』には書かれていない、当事者ならではの証言がある貴重な文学碑である。

 碑の裏面には、平成5年(1993年)、ヤエノの永代供養として建碑されたいきさつも詳しく述べられている。

覚音山西徳寺「林芙美子文学の原点直方・在住から100年」実行委員会

「碑の裏面」

明神町入口屋に投宿した直方滞在時の林芙美子は12才、渡辺ヤエノは15才であった。「ヤエ姉ちゃん、ヤエ姉ちゃん」と言って共に遊んだ活発な娘さんだったそうである。

その12才の少女が手甲脚絆を身につけて明神町から知古芝原を通り新出渡し(現三中横)を渡って木屋瀬から香月や中間の炭坑の町を辻占の箱を抱えて売り歩いていたと言う。 その疲れ果てての帰り、渡し船を上ってから、うす暗くなった広い洪水敷地の道をとぼとぼと歩いたであろう姿が目に浮かぶようである。

「放浪記」の中では大正町の馬屋と書いてあるが、事実は明神町の入口屋であり、宿主が馬と馬丁を置いて搬送業と宿を兼業していたので、馬の記憶から馬屋になったのであろう。

栗原、渡辺家の菩提寺である西徳寺殿の御理解に依り此處に林芙美子の文学碑を故人渡辺ヤエノが遺した資産で建立して渡辺ヤエノの永代供養とするものである。

覚音山西徳寺


 宝暦12年(1762年)5月17日、有井浮風は61歳で没。西徳寺で法筵の俳諧を催す。

   初月忌、連中各つとひ集り、西徳寺にして法
   筵の俳諧を催して

此道と覗けは濡るゝ泉かな
  文雄
 住持
 連は空行蓮の葉の笠
   水翁


 安永7年(1778年)、諸九尼は直方に戻り山部に草庵を結んで浮風の菩提を弔う。

 西徳寺横の尾仲家の屋敷内に諸九尼の草庵があったとされており、そこには、「諸九尼終焉之地」と刻まれた碑が建てられているそうだが、見なかった。

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