ここには、直方の炭鉱王貝島太助の自宅がありました。当時としては、珍しい3階建の木造住宅で豪華な建物であっただろうと推測されます。 当時は、森鴎外など著名な方々が貝島の自宅で足を休めたとされています。 貝島太助像は、昭和34年(1959年)に筑豊の炭鉱王としての功績を称え、記念像が建てられました。昭和45年からは、児童公園として親しまれております。 平成10年には、小倉の第十二師団の軍医部長森鴎外が明治33年(1900年)に直方の貝島宅に宿泊したことを記念して、森鴎外記念碑が建てられました。 昭和45年からは、児童公園として多くの方の憩いの場として親しまれております。 |
明治21年(1888年)、直方市植木の東岡堂薬舗に生れる。 昭和34年(1959年)、王樹の碑建立。 昭和35年(1960年)、『湖白庵諸九尼全集』(大内初夫・飯野松子・ 阿部王樹共編)刊。 昭和49年(1974年)、86才で歿。 |
五日。黒崎を發して、途上雨に遇(あ)ふ。夕に直方に抵(いた)り、富豪貝嶋氏に舎(やど)る。家事金子辰三郎主人に代りて客を待つ。予の居る所の室たゝみ十五枚を敷く。床の間に、岡豊彦筆の大幅淡彩獅子の圖(紙本)を腰け、古銅の香爐を安んず 六日。主人太助出で、客を見る。五十歳許の偉丈夫なり」 七日。午前主人の長子栄三郎出でゝ相見る。家多く畫幅を藏す。多くは藤田傳三郎の家より出づと云ふ。
『小倉日記』 |
鴎外森林太郎は第十二師団軍医部長として小倉に居住する間、明治33年(1900年)10月、演習のため直方を訪れ貝島邸に宿泊した。主人太助翁に会い「五十歳許の偉丈夫なり」との印象並びに翁所蔵の画幅について日記に書き留めた。 |