2014年福 井

紫式部公園〜紫式部像〜
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「ふるさとを偲ぶ道」から紫式部公園へ。


寝殿造庭園と釣殿


 源氏物語の作者紫式部は長徳2年(996年)、越前守に任じられた父藤原為時とともに多感な青春時代の一ときを武生の国府で過ごした。当時の国守の館は、平安貴族の住宅様式となっていた寝殿造であったと考えられる。

 寝殿造とは、寝殿(正殿)を中心とした数棟の建物と池や築山などを配した庭園で構成された邸宅である。

 文化財保護審議会専門委員をはじめ、多くの専門家たちの綿密な時代考証と叡智を集めて造られた庭園は、約3千坪、風光明媚な越前海岸の景観をとり入れた石組や州浜・中島などが配された池には、朱塗の勾欄の橋が架けられ、四季おりおりの移りゆく自然の姿を美しく水面に映し出す。源氏物語や枕草子に、音の涼しげなのを賛美している遣水、ゆるやかな起伏をつくり、草むらにすだく虫の音に耳を澄ます野筋(庭園における山裾の斜面)など、平安時代の作庭精神が随所に生かされている。

 寝殿などの主な建築は、その輪郭を生かし、寝殿の位置には芝を張り、東の対屋(たいのや)渡殿(わたどの)などは四季の花壇とした。消夏のために池を生かし、空間性豊かに建築の工夫をこらした釣殿は、納涼や月見の宴、詩歌管弦の場所であり、紫式部日記絵巻に描かれているように風雅な舟遊びのための乗降場所でもあった。

 このような寝殿造庭園と釣殿が平安時代の趣のままに再現されたのは、全国でも初めてのことである。

紫式部像


紫式部像によせて

 源氏物語によって不朽の名をとどめる平安朝の女流文学者紫式部が、この越の国で若き日をすごした事実は忘れられない。武生市が市制35周年の記念事業として建立した紫式部像は、そのような歴史と文化の美しい由緒を示すものである。彫刻は日本芸術院会員として声価も高い圓鍔勝三(えんつばかつぞう)氏の鏤骨の苦心になる金色の十二単衣像。背景の平安朝式庭園は、研究家として高名な森蘊(もりおさむ)氏の設計を煩わせたもの。相まって現代に貴重な共作芸術となっている。多くの専門学者たちによる時代考証をも昇華させたこの優作が、紫式部の文学とともに悠久に生きつづけることを願っている。

   昭和61年6月

河北倫明(かわきたみちあき)

紫式部の像を取り巻くように歌碑があった。

紫式部の歌碑@


としかへりて、「から人見にゆかむ」といひたりけむ人の、「春は解くるものといかで知らせたてまつらむ」といひたるに

春なれどしらねのみゆきいやつもりとくべきほどのいつとなきかな

紫式部歌碑(清水好子撰)

歌と詞は実践女子大学本「むらさき式部集」に拠る


 この歌は、やがて結婚することになる藤原宣孝との贈答歌である。当時、敦賀に来ていた宋国の人々に会うことを口実に、越前に下向してでも結婚を申し込みたいという宣孝に、式部は加賀の白山に積もる雪を詠み込んで、私の心は解けませんと拒絶している。白山が越前市からも眺められることは、地元の人にもあまり知られていないようである。

ことほぎの碑


   紫式部歌碑の建立を祝いて

日野嶽の雪を詠みたる紫女の歌ながく残らむことをこそ祈れ

ことほぎの碑(吉井勇の歌・佐佐木信綱の詞)

 谷崎潤一郎揮毫の歌碑と同時に、河濯山芳春寺に建立された。歌人吉井勇の歌と国文学者佐佐木信綱の祝詞が刻まれている。佐佐木信綱博士が、幼い頃に越前・加賀に遊んだときの思い出に始まる、心温まる文章である。歌碑と同じく、昭和61年の紫式部公園完成時に河濯山芳春寺から移設された。

紫式部の歌碑A


こゝにかく日野の杉むら埋む雪小塩の松にけふやまがへる

紫式部の歌碑(谷崎潤一郎の揮毫・山田孝雄撰)

 日野山は越前富士といわれている。その美しい山の杉林に雪が積もっているのを見ると、京都の小塩山に降り乱れる雪を思い出し、郷愁に浸っている紫式部の姿がしのばれる歌である。

 この石碑は昭和33年に河濯山芳春寺に紫式部顕彰会の手で建立されたものが、紫式部公園完成時に移設されたものである。裏面には、国文学者山田孝雄博士の精密な文章が彫られている。

紫式部の歌碑B


身のうさは心のうちにしたひきていま九重に思ひみだるゝ

紫式部歌碑(円地文子揮毫・清水好子撰)

 紫式部は、夫藤原宣孝に先立たれた後、娘賢子を育てながら物語の創作に明け暮れていたと思われる。やがて物語作者として知られるようになった式部は、一条天皇の中宮彰子のもとに女房として召し出されるが、この歌はそのときに詠んだ歌といわれている。宮中の栄華のさなかに身を置いて、いくえにも思い乱れる内心の憂いを見つめた歌である。なお、この揮毫が円地文子の絶筆となったといわれている。

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