2011年〜千 葉〜
伊藤左千夫記念公園
〜政夫と民子の像〜
この政夫と民子の像は、明治39年4月5日、俳書堂から出版された伊藤左千夫作・小説『野菊の墓』の中で中村不折画家が描いた口絵を基に多摩美術大学武田光幸教授が制作したものである。 |
屋敷の西側に一丈五六尺も廻るやうな椎の樹が四五本重なり合って立って居る。 村一番の忌森(いもり)で村じゅうから羨ましがられて居る。 茄子畑といふは、椎森の下から一重の藪を通り抜けて、家より西北に当たる裏の千栽畑。 水のやうに澄みきった秋の空、日は一間半許りの辺に傾いて、僕らふたりが立って居る茄子畑を正面に照り返して居る。 此辺一体に高台は皆山林で其間の柵が畑になって居る。 |
「まァ政夫さんは何をしてゐたの。私びっくりして……まァ綺麗な野菊、政夫さん、私に半分おくれったら、私ほんとうに野菊が好き。」 「僕はもとから野菊がだい好き、民さんも野菊が好き……」 「私なんでも野菊の生れ返りよ。野菊の花を見ると身振ひの出るほど好もしいの。どうしてこんなかと、自分でも思ふ位。」 「民さんはそんなに野菊が好き……道理でどうやら民さんは野菊のやうな人だ。」 |
『野菊の墓』は明治39年(1906年)1月の『ホトトギス』に載った左千夫の処女小説である。 舞台となったところは松戸の矢切であるが、斎藤家の家の様子や椎森、田園風景、茄子畑などには、成東町殿台の生家およびその周辺の自然の情趣が生かされている。 政夫と民子の悲恋のこの物語は、牧歌的ななかに悲しくも美しい人間像として描かれている。 夏目漱石は「『野菊の墓』は名品です。自然で淡泊で、可哀想で、美しくて、野趣があって結構です。あんな小説なら何百編よんでもよろしい」と賛辞を送っている。 左千夫は野菊を好んで庭に植えて愛し、茅場町の自宅を「野菊の宿」と呼んだ。 |
野菊の歌 秋草のいづれはあれど露霜に痩せし野菊の花をあはれむ 檜扇の丹づらふ色にくらぶれば野菊の花はやさしかりけり 秋立つと思ふばかりをわが宿の垣の野菊は早咲きにけり 手弱女の心の色をほふらむ野菊はみとな花咲きにけり 竪川の野菊の宿は初芽過ぎ二の芽摘むべく群生ひにけり ほろびの光 おりたちて今朝の寒さを驚きぬ露しとしとと柿の落葉深く 鶏頭のやや立ち乱れ今朝や露のつめたきまでに園さびにけり 秋草のしどろが端にものものしく生きを栄ゆるつはぶきの花 鶏頭の紅ふりて来し秋の末やわれ四十九の年行かんとす 今朝のあさの露ひやびやと秋草や總べて幽(かそ)けき寂滅(ほろび)の光
左千夫 |
『野菊の歌』 野菊の花を愛した左千夫は、他に椎・槐(えんじゅ)・柿・楓・合歓木・譲葉などの樹木、牡丹・鶏頭・女郎花・桔梗・萩などの草花が好きで、茅場町の庭に植えてその風情を愛でた。 野菊はとくに好きで、自宅を「野菊の宿」と呼び、歌や小説『野菊の墓』にあらわした。 『ほろびの光』 『ほろびの光』5首は、大正元年発表の左千夫短歌の晩年の歌境をあらわす絶唱歌である。 茅場町の庭前での作者と自然相の寂寥とが融合された写実短歌の境地が示されたもので、その近代的歌風は左千夫生涯における代表歌というにふさわしいものがある。 |