牧水歌碑

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千曲川万葉公園

戸倉上山田温泉の万葉橋のたもとに千曲川万葉公園がある。


万葉公園と言うくらいだから、『万葉集』の歌碑がある。

 『万葉集』の歌碑ばかりではなく、万葉の時代から現代に至るまで27の歌碑が建っている。

その中に若山牧水夫婦の歌碑がある。


秋風の空晴れぬれば千曲川白き河原に出てあそぶかな

若山牧水

 大正14年(1925年)6月10日、牧水は信州戸倉温泉「笹屋ホテル」から手紙を出している。

 大井は好成績、長野は先づ普通らし、但し、金がよく集るかとけねんされる。松代は貧弱、小諸は多分中止することゝならむ、名古屋も悪戦らしい。明日明後日、こゝで揮毫、13、4日長野で歌会陳列会(一般と、婦人会と)



ふるさとの信濃なるかもいまぞわが千曲の川の長橋わたる


若山喜志子(明治21年〜昭和43年)

 本名太田喜志。広丘村(現塩尻市広丘)に生まれる。広丘小学校校長島木赤彦の下で教師を務める。「信濃毎日新聞」選者太田水穂に認められ、のち水穂を頼って上京。水穂宅に寄留中、若山牧水に出会い結婚。

牧水の歌碑がもう1つあった。


かんがへて飲みはじめたる一合の二合のさけの夏のゆふぐれ

第5歌集『死か芸術か』

 明治45年(1912年)4月2日、牧水は上諏訪松川屋より、太田喜志宛に手紙を書いている。

 實は1本か2本で濟ましとくつもりであつた酒を、ツイ5本(と云つても1合か1合半の銚子です)飲みました、そして、それ相當に醉つています、(叱り給ふな、今日は實際飲まざるを得ず)

『死か芸術か』というのは牧水らしくない。

 明治四十五年七月二十一日に惶しく原稿をまとめて書肆に渡し、翌二十二日に私は東京を去つてこの郷里に帰つて来た。父危篤の急電に接したがためであつた。

 牧水は、父危篤の急電に接して「憐れな老父母を見送らうと決心した」のである。

 大正元年(1912年)11月14日、父の死。牧水は大正2年(1913年)5月15日まで、郷里の日向に留まる。

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