芭蕉の句
一里はみな花守の子孫かや
出典は『猿蓑』(去来・凡兆共編)。
「いがの國花垣の庄は、そのかみ南良の八重櫻の料に附られけると云傅えはんべれば」と前書きがある。
元禄3年(1690年)春の句。
奈良の八重桜は伊勢大輔の「いにしへの奈良のみやこの八重ざくらけふ九重ににほひぬるかな」(『詞花集』)の歌にも有名な桜。
膳所に行とて道より物に書付て半殘か許に來る二句
一里は皆花守の子孫かな(かや可也)
蛇喰ふときけ恐し雉の聲
右花守の句は伊賀の國予野といふ所に奈良のみやこの八重櫻の故事あり。古今著聞集沙石等に詳也。よつて此句あり。
『沙石集』等の説話集に、平安の昔、一条天皇の后上東門院が奈良興福寺の八重桜を京に移そうとしたところ、僧徒らが強く反対、后はその風雅心に感心し、伊賀国余野の庄を興福寺領に寄進して花垣庄となづけた。これより里人は毎年奈良に赴き花垣を結い、花の盛り7日間は宿直(とのい)を置き守らせた、との話がある。
半殘は山岸十左衛門。伊賀上野の藤堂修理(俳号橋木)の家臣。
元禄3年(1690年)春、橋木亭で歌仙を巻いた。
天現寺の句碑
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