石川啄木ゆかりの地


北村牧場入口

岩見沢市北村豊里の道道6号線岩見沢月形線沿いに「北村牧場入口」がある。

明治39年(1906年)、北村牧場開設。

九月十一日

 午前仮事む所に大竹校長を訪ひて退職願を出しぬ。座に橘女史あり、札幌の話をきけり。高橋女史に逢へり。

九月十二日

 朝のうちに学校の方の予が責任のある仕事を済し、ひとり杖を曳いて、いひ難き名残を函館に惜しみぬ。橘女史を訪ふて相語る二時間余。


「北村牧場入口」に石川啄木の歌碑があった。


石狩の空知郡の
牧場のお嫁さんより送り来し
バタかな

  『悲しき玩具』収録の歌。

鹿子百合の碑

 薄幸の歌人石川啄木があこがれた橘智恵(戸籍上はチエ)は、北海道庁立札幌高等女学校卒業後補習科に進み、明治39年(1906年)3月函館区立弥生尋常小学校の訓導となった。

 翌40年6月、代用教員として採用された。石川啄木は、智恵を「真直ぐ立てる鹿子百合」にたとえ、美しい同僚の存在に強く心をひかれるものがあった。不幸にも同年8月函館大火によって職を失った啄木は、智恵の下宿先を訪れて処女詩集「あこがれ」を贈り札幌へと旅立っていった。その後病を得て職を辞し、療養に専念して全快した智恵は、札幌農学校で兄の学友であった若き牧場主北村謹のもとへ嫁ぐことになり、明治43年5月石狩川を汽船で遡って、空知郡北村の北村農牧場(後の北村牧場)に来たのであった。

 啄木は、明治43年末に出版した処女歌集「一握の砂」を智恵に送ったが、この歌集に収められた「忘れがたき人々二」22首は智恵を歌ったものである。

 のちに「空知のホルスタインの父」とたたえられる夫と共に、多忙な毎日をおくっていた智恵は、啄木が東京で肺を患い、栄養もままにならない貧困の生活をおくっていることを風の便りに聞き、当時高価で入手困難だったバターを、夫の同意のもとに、歌集のお礼の気持ちを込めて、かっての同僚に贈った。

 大正11年(1922年)10月1日、智恵は産褥熱のため、愛する夫と6人の子を残して、空知郡岩見沢町の岩見沢病院でこの世を去った。満33歳であった。

 私たちは、この美しいエピソードを永く後世に伝えるため この碑を建立する。

平成11年(1999年)10月、北村歌碑建設期成会建立。

平成17年(2005年)、北村牧場廃業。

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