森鴎外ゆかりの地
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森鴎外居住の跡〜「舞姫」〜

東京芸術大学から上野動物園の裏を行くと、「水月ホテル鴎外荘」がある。


「水月ホテル鴎外荘」の前に森鴎外と森鴎外居住の跡の説明が書いてあった。

森鴎外
(1862〜1922)


 島根県津和野出身。旧幕時代の藩医の長男に生まれる。東京大学医学部卒。陸軍省の軍医となり、日清戦争、日露戦争に従軍。

 森鴎外は明治14年(1881年)東京医学校予科(現:東京大学医学部)を19歳で卒業。年齢を2歳偽っていたそうだ。

 翻訳、創作、批評に活躍、明治文化人の重鎮。代表作に「於母影」(翻訳詩集)・「舞姫」・「雁」・「渋江抽斎」・「高瀬舟」・「うたかたの記」。

森鴎外居住の跡

 森鴎外は、明治23年(1890年)この地において文壇処女作品を発表し、近代文学史上画期的な活躍をする基礎を築いた地でもあります。

 明治22年(1889年)3月、西周(1829−1897)の媒酌で赤松登志子と結婚し、上野花園町11番地に移る。上野花園町は現在の池之端3丁目である。

 明治23年(1890年)1月、『舞姫』発表。9月、長男於菟(おと)生まれる。妻登志子と離婚。10月、駒込千駄木町57番地に転じ、千朶山房と称する。この家は後夏目漱石の「猫の家」となった。

水月ホテル鴎外荘

鴎外「舞姫」の碑


 彼は幼きときより物読むことをばさすがに好みしかど、手に入るは卑しき「コルポルタアジュ」と唱ふる貸本屋の小説のみなりしを、余と相識るころより、余が貸しつる書を読みならひて、やうやく趣味をも知り、言葉の訛りをも正し、幾ほどもなく余に寄する文にも誤り字少なくなりぬ。 かかれば余ら二人の間にはまづ師弟の交はりを生じたるなりき。我が不時の免官を聞きしときに、彼は色を失ひつ。余は彼が身の事にかかはりしを包み隠しぬれど、彼は余に向かひて母にはこれを秘めたまへと言ひぬ。こは母の余が学資を失ひしを知りて余を疎んぜんを恐れてなり。

 「舞姫」の主人公である太田豊太郎のモデルは2人いる。1人は言うまでもなく森鴎外自身であるが、もう1人は武島務という人物だそうだ。武島務は埼玉県秩父郡太田村出身の三等軍医で、埼玉の同郷人の讒言にあって免職になり、ドレスデンで亡くなっているらしい。

「於母の碑」


 森鴎外(1862〜1922)は、この地において文壇處女作の「舞姫」を出した。又「うたかたの記」や新體詩集「於母影」(新聲社)を出し、新聲社の機関誌「しがらみ草子」を發刊した。故に近代文学史上劃期的な活躍をする基礎を築いたのが、この地である。碑の文字は鴎外の毛筆書き「舞姫」原稿から子息森類が選定した。碑に刻まれたものでは唯一の直筆です。

長谷川泉撰

 舊字體で書かれているが、「鴎外」の「鴎」だけは舊字體で表示できない。「水月ホテル鴎外荘」のホームページも舊字體で書いてないのだから、仕方がない。

森鴎外居住の跡


「舞姫」を執筆した部屋が残されている。

玄関に入ると、詳しい説明が書いてあった。


「水月ホテル鴎外荘」には「おもかげ」の碑もある。


おもかげ

しのばずの池に臨める楼上に夜を徹してこの一巻を編み成しし

森鴎外

長谷川泉撰

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