2017年青 森

徳玄寺〜芭蕉の句碑〜
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むつ市新町の徳玄寺に芭蕉の句碑があるというので、行ってみた。


斗南開発の館 徳玄寺

 表高23万石を誇り、奥羽第2の雄藩であった会津藩は、全国諸藩の中で最も勤皇の志が厚かったにもかかわらず、明治維新の際に朝敵の汚名を着せられ、全国唯一の移封処分を受けて、ここ斗南の地へ挙藩流罪となりました。

 ここ徳玄寺は藩主松平容大公の食事や遊びの際に利用された場所です。

 当時の容大公は数え年3歳ではありましたが、移住藩士達を激励する為に各地を回村するなど、新天地開発に励む人々の大きな心の支えとなったのでした。

 また、ここは重臣の会議場でもあり、様々な施策についての論議が重ねられた所でもありました。東北の長崎を目指した大湊の開港や種々の産業開発など卓越した構想と意欲は、廃藩置県後も斗南の地にとどまった人々に希望を与え、新生青森のあらゆる方面において会津魂は大きな功績を残したのでした。

「映画監督川島雄三の碑」があった。


花に嵐のたとえもあるぞ

   サヨナラだけが人生だ

于武陵の「勧酒」の井伏鱒二の訳詩である。

碑によせて

 青森県の生んだ異色の映画監督川島雄三はむつ市に生まれながら、この町でも忘れられ、彼の偉大な業績は在京映画人の有志と川島雄三作品同好の一部県人によって評価されているに過ぎないように思ふ。吾等雄三を愛する者たちはこれを残念に思い、彼のすぐれた作品を市民に紹介してきましたが、更に彼の業績と人徳を後世に伝えるための顕彰碑の建立を思い立ち、広く募金運動を展開いたして参りました。幸に市内はもとより在京映画人をはじめとして県内外の同好の志のご協力で、雄三十七回忌の本日、ゆかりの徳玄寺境内に建立できました。碑文は彼がこよなく愛した井伏鱒二氏の訳詩、書は名作「暖簾」主演の森繁久弥氏。題字は生前親交の深かった今村喬平氏の筆によります。

   昭和54年6月11日

映画監督川島雄三を偲ぶ会

私は映画を見ないから、知らなかった。

齢香山徳玄寺


真宗大谷派の寺である。

 寛政4年(1792年)12月3日、菅江真澄は徳玄寺の傍らの橋で子供達が遊ぶのを見る。

三日 夕附行ころ、齢香山徳玄寺のかたはらにある智愚庵のあるじ、実元上人をとぶらふとてゆく。橋のうへに童あまた集り、しもとのやうなるものにまたがり、竹うまのごとくにのりて、しみ氷たる雪の中を、つぶてなどの行やうにくだる。これをはしのり、坂のりといふ。松前のわらはそせりける、すりかいにおなじ。

   うなひ子が小阪さかのり橋のりてかゝるみゆきに楽しきやつむ

「牧の冬かれ」

 文化7年(1810年)8月20日、松窓乙二は盛岡を立ち、田名部を経て、9月5日、大間浜に到着。

田名部熊谷氏は諸邦にひろく、巨萬の良材を船にてのぼせあきなふ家にて、ことしも此のあたりかの檜山より森岡の東門馬をかけて、土ヶ山に杣頭をはじめ、杣ども二百餘人をのぼせりときく。


本堂裏の胡桃の木の下に芭蕉の句碑があった。


顔に似ぬ發句もいてよはつさくら

出典は『續猿蓑』(沾圃編)。

『蕉翁句集』(土芳編)は「元禄七戌ノとし」とする。

文政3年(1820年)3月、俳諧社中建立。

 かつては田名部村の蓮花寺にあったが、蓮花寺は幕末に廃寺となり、徳玄寺玄々上人が寺中にうつしたもの。

本州最北端の芭蕉句碑である。

ちなみに日本最北端の芭蕉句碑は余市町の出雲神社にある。

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