往昔「藤代五躰王子」の神宮寺として栄えた中道寺の熊野三所権現と藤代若一王子の本地仏(熊野路で唯一現存する最古の造像といわれている)を祀る。 熊野本宮の阿弥陀如来像、熊野速玉の薬師如来像、熊野那智の千手観音像、藤代若一王子の十一面観音像は和歌山県の指定文化財である。 いずれも熊野詣でが盛んであった平安末期の造像である。 熊野の入り口を護る毘沙門天と不動三尊も祀る。 |
今から千三百数十年前、孝徳天皇の皇子であった有間皇子は皇位継承をめぐる複雑な争いの中で、19才の若さで散っていった悲運な方です。政敵であった中大兄皇子が蘇我赤兄をさそい有間皇子に有間皇子に天皇に謀叛をすることをすすめました。うまく、わなにかかった皇子は、その釈明のために牟婁(白浜)の温泉にいる斉明天皇のところに参り、その帰路この藤白坂で絞殺されてしまったのです。 途中で皇子の詠まれた ”家にあら(れ)ば笥(け)に盛る飯(いい)を草枕旅にしあれば椎の葉に盛る” ”磐代の浜松が枝を引き結び真幸(さき)くあらばまた還り見む” の2首が万葉集にのせられていますが、絶唱として、ひとびとの涙をさそいます。 ここから200メートル西の藤白坂の上り口に、皇子の墓と佐佐木信綱博士揮毫の歌碑がありますが、有間皇子神社はその御魂をお祀りしております。境内の歌碑(雑賀紀光筆)と、歌曲碑(打垣内正作曲)の ”藤白のみ坂を越ゆと白たへのわが衣手はぬれにけるかも” の歌は、それから43年後、持統、文武紀の温泉行幸の途次、お伴の人が皇子への同情と追慕から詠んだもので、これも万葉集にのせられています。 |
五月八日 芹吟行会 海南市 有間皇子の墓。「家にあれば笥(け)に盛る飯を草枕旅にしあれば椎の葉 に盛る」の皇子の歌を刻す。この地に果てたりと伝ふ 椎の葉に盛りたる飯の夏らしや
『芹』 |