ここは、熊野古道(小栗街道)と近世の熊野街道との合流点にあたります。 『紀伊続風土記』に熊野一の鳥居があったこと、地名「鳥居」の由来もこれによると記されています。 鳥居のすぐそばに「祓戸王子(鳥居王子)」があり、そこで垢離をとり心身を清め、熊野聖域へと入って行ったのでした。この鳥居は、天文18年(1549年)には損失されたと前記文献に記されています。また現在、藤白神社の二の鳥居の傍らに「熊野一の鳥居」と刻まれた石碑も残っています。
海南市教育委員会 |
雄ノ山峠を越えて熊野へ参詣する熊野古道を小栗街道とも呼んでいます。 小栗街道といわれるのは、不治の病にかかった小栗判官が、照手姫の土車に引かれて熊野権現の霊験を求め、熊野を目ざしてこの道を通ったためです。 判官は熊野本宮に参詣し湯ノ峰の湯を浴びてすっかり元気になり、照手姫と結ばれました。 判官は、後に機内五か国(大和・山城・河内・和泉・摂津)と美濃(岐阜県南部)を賜りました。 この話は、説教師や和讃、浄瑠璃などに脚色されて伝えられています。
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歌人で女子教育者としての木下美代子を敬愛する人々によって、夫君の洋画家木下克己せんせいゆかりのこの藤白の社に建立された歌碑です。 |
この藤白王子社(現藤白神社)は平安時代から盛んに行われた熊野詣での礼拝所で、熊野九十九王子のうち五躰王子の一として特に格式の高かった神社である。 中世の熊野御幸の際には当社を御宿泊所とせられ、御歌会、相撲会等が催された。 特に藤原定家の「熊野御幸記」に記載されている建仁元年(1201年)に後鳥羽上皇が催された藤皇子和謌会が有名で、そのときの「熊野懐紙」御宸翰は国宝となっている。 深山紅葉 うばたまのよるのにしきをたつたひめ たれみやまぎと一人そめけむ 白藤の下に歌碑があり、傍らに「御歌塚」がある。 また、神社の「本殿」「藤白の獅子舞」「本堂の熊野三所権現本地仏三躯「藤白王子」の本地仏も和歌山県指定の文化財である。
和歌山県教育委員会 海南市教育委員会 藤 白 神 社 |
詠二首和哥 |
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深山紅葉 |
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うはたまのよるのにしきを |
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たつたひめたれミ山きと |
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一人そめけむ |
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海邊冬月 |
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うらさむくやそしまかけて |
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よるなミをふきあけの月に |
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まつかせそふく |
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藤代王子和謌會建仁元年十月九日當座 |
きた山にもみぢお(を)らんとてまかれりける時によめる みる人もなくてちりぬる奥山のもみぢばはよるの錦なりけり
『古今和歌集』(巻第五) |
この句の前書に「彼の藤白み坂といひけん花は宗祇のむかしに匂ひて」とある。 もと祓戸王子社内にあり芭蕉を尊敬する二夕坊といふ人が建てたと刻まれている。 |
古来「子守の宮」として広く信仰され、この神様から楠・熊・藤等の名前を授かる人が多い。紀州の生んだ世界的学者の南方熊楠がその一人である。 千年楠は海南市の文化財に指定されている。 |
五月十三日 海南ホトトギス会 藤田神社 熊野路のここにはじまる金鳳華 皇子あと古き椿のなほ存す 蝌蚪の紐畔に引き上げられてあり 苗代へ蜜柑の花の香をこぼす バラ園のその香にひたり歩をゆるく 立ち出でて夜の新樹の香の中に |