同じ所指谷町(さすがや)にあり。小石川の鎮守にして、神主中井氏奉祀す。祭神(まつるかみ)賀洲石川郡に在(いま)す白山比(しらやまひめ)神社に同じ。伊奘册尊(いざなみのみこと)・菊理姫(くくりひめ)・泉道守者(よもつちもりひと)等三座なり。(『一宮記』に曰く、下社は伊奘册尊、上社は菊理姫、号白山権現云々。)相伝ふ、当社は元和三年の勧請なりといへり。当社、旧(いにしへ)白山御殿の地にありて、氷川明神・女体の宮と共に並びてありしかども、彼地(かしこ)に御殿営作せられし頃、今の地へ遷座なし奉るとなり。(『神社略記』曰ふ、この神旧(いにしへ)白山御殿の地に鎮座ありて、その原始(はじめ)尤も久し。神木に船繋松とて無比の大樹ありしと云々。氷川の社は今御藥園の西にあり、その上条下に詳かなり。女躰の宮も今伝通院の内にある所の弁財天これなり。)祭礼は九月二十一日なり。鉤樟(くろもじ)の歯子(やうじ)と、紙にて製する所の弓箭(ゆみや)を以つてこの地の土産とせり。 |
当社人皇六十二代村上天皇天暦2年(948年)9月加賀一宮白山神社を武蔵国豊島郡元国木と号して今の本郷元町に奉勧請す。建武4年(1338年)足利尊氏により国家平安御祈願所に命ぜられ永百貫文之御判物を賜る。元和2年(1616年)徳川秀忠公の命に依り小石川白山御殿(巣鴨原)へ遷座、慶安4年(1651年)徳川家綱公の用地と相成り、明暦元年(1655年)現在地に移奉す。同年社頭其外造立に相成り、後に五代将軍家綱公之生母桂昌院の信仰を受けらる。元禄年中までは本社摂社寄附神楽宝庫は勿論神官宅まで、旧幕府より修繕を加えられる。寛文6年(1677年)9月29日祭礼賑々しく執行いたすべき旨申し渡され、御開帳並びに祭具等寄附あり。元禄3年(1690年)正月29日旧幕府より社領30石寄附之あり。右朱印元禄6年(1693年)9月29日戸田能登守相渡さる。元禄16年(1703年)11月29日小石川辺より出火、本社摂社末社宝庫並びに祭具のこらず社中惣門まで悉く類焼し、宝永元年(1704年)6月14日加藤越中守掛にて仮殿手当として金500両桧5000挺寄附あり。再建せられたるも享保3年(1719年)3月回禄の時再び火災にあい宝物什器祭具等悉く焼失す。後数十年間本殿のみ建立しありしに明治32年拝殿建設、昭和8年改修し同9年9月18日盛大に正遷座大祭施行す。 |
(なお白山御殿の地名は元白山社地なるが故であり、小石川の地名は始め加賀国石川郡より奉勧請当社鎮座の旧地に倣へるが故なり) 当社は明治元年勅祭神社に準じられ(準勅祭神社)、東京十社の一つである。 |
昭和四十三年度総代会に於ける宮総代秋本平十郎及浦部武夫両氏の談話の中に白山神社境内には中国の政治家孫文先生と宮崎滔天寅蔵氏の腰掛けられた石があるとの御話がありました依而昭和四十四年度の総代会に故滔天氏の御子息宮崎龍介氏を御招きし其の当時の事をお伺ひ致した処明治四十三年五月中旬の一夜孫文先生は滔天氏と共に境内の此の石に腰掛けながら中国の将来及其の経綸について幾多の抱負を語り合わされて居た折たまたま夜空に光芒を放つ一條の流星を見られ此の時祖国の革命を心に誓われたと言ふお話をなされました 宮崎滔天全集の中に孫文先生は当神社に程近ひ小石川原町の滔天氏宅に寄寓せられて居た事が記るされております 此の歴史上の事実と当社との因縁を後世に伝うべく兼ねてより総代会にて屡々議題に上りましたが此の度宮総代酒井瀧蔵氏の御発案を契機として神社総代各町会総代有志の心からの賛同の結果此の腰掛石の記念碑建立の運びと成り之を永代史跡として残す事に成った次第であります
白山神社宮司 清水司 |