紫川は、その名の由来をたずねると、上流の谷の石が紫色を帯びているからとも、村崎にあるからとも言われています。 また、万葉集に『むらさきの名高の浦・・・』と詠んだ歌があります。 『紫の名高の浦の愛子地(まなごつち) 袖のみ触りて寝ずかなりなむ』 この他にも2首あります。 これらの歌の「名高の浦」に「むらさきの」という枕詞がつけられているのは、紫は「貴(たっと)い」色として名高いので「名高」にかかる枕詞になったのでしょうか。 名高にも紫川と呼ばれる川があったことは、本居宣長の『玉勝間』に紹介されており、名高浦へ注ぐ川を紫川と呼んだものでしょう。
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有間皇子は、孝徳天皇の皇子です。 斉明4年(658年)11月に、謀反の疑いで捕らえられ、牟婁の湯(白浜の湯崎温泉)に行幸中の天皇のもとへ護送されました。 中大兄皇子の尋問を受け、その帰り道に、この藤白坂で絞殺されました。皇子は19歳の若さであったと伝えられています。 皇子が護送途中、自らの運命を悲しんで詠んだ歌が2首あり、そのうちの1首が、ここの歌碑に佐々木信綱博士の筆で刻まれています。 『家にあれば笥に盛る飯を 草枕旅にしあれば椎の葉に盛る』
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岩代の濱松がえをひきむすびまさしくあらば又かへり來む これは孝徳天皇と申しけるみかど、位をさり給はむとしける時、有間の皇子に位をゆづり給ふべきを、えたもつまじきけしきを御覧じて譲り給はざりければ、怨み申して山野にゆきまどひ給ひて、岩代といへる所にいたりて松のえだを結びてよみ給へる歌なり。 家にあればけにもる飯を草枕たびにしあればしひのはにもる これもその程によみ給へるとぞかける。結び松の心はたむけといへる同じなり。松の葉をむすびてこれがとけざらむさきにかへりこむとちかひて結ぶなり。さてまさしくあらばとよむなり。 |