武市半平太(瑞山)
「土佐勤王党党首、月形半平太のモデル」
文政12年(1829年)〜慶應元年(1865年) 勤王の志士、小棔 文政12年(1829年)、長岡郡咲井村(現:高知市仁井田吹井)に出生。家格は郷士出身の白札格。剣士として名高いほか、余技として絵画も嗜んだ。剣を千頭傳四郎、麻田勧七に師事し、新町田淵(現:高知市菜園場町)に道場を開く。この道場では中岡慎太郎・岡田以蔵らも剣を磨いた。後に江戸に出て桃井春蔵に入門。鏡心明智流の手ほどきを受け、塾頭となる。また、江戸滞在中、長州の桂小五郎、久坂玄瑞、薩摩の樺山三円らの志士と交流し、尊皇攘夷実現のため参勤の際の藩主入京を目指し、お互いに連携することを約束した。 文久元年(1861年)8月、江戸において大石弥太郎、河野万寿弥(ますや)(敏鎌(とがま))ら土佐出身の同志と土佐勤王党を結成。9月には帰郷し、旧知の坂本龍馬、平井収二郎らをはじめ、田淵道場の門弟などにも声を掛け、郷士層を中心に192名の血盟者を得た。そして挙藩勤王実現に向け重ねて進言したが、吉田東洋主導の藩庁は彼らの意見を書生論と退け、他言を禁じて公武合体路線を堅持した。 藩政の展観を目指す勤王党は、参政吉田東洋の排除を画策。文久2年(1862年)4月、半平太は那須信吾ら3名の刺客に命じ、帰宅途中の東洋を惨殺した。この結果藩庁内部の人事は刷新され、8月には多数の勤王党員らを従えた藩主豊範が入京し、京都警護、国事周旋に関する内勅を得た。半平太は京都にあって薩長同志らと勅使東下のため奔走。10月には攘夷実行を促す勅使が江戸に下ることとなり、半平太自身も副使姉小路公知の雜掌柳川左衛門として行列に加わった。 帰洛後、上士格の御留守番組に、さらに翌文久3年(1863年)3月には京都留守居役加役に進むが、同年8月18日の政変で、尊皇攘夷派の長州藩が京都を追われ、公武合体派が復権すると、9月には土佐でも前藩主山内容堂が土佐勤王党を弾圧。帰郷していた半平太も、南会所の揚屋で後藤象二郎から吉田東洋暗殺事件の審問を受ける。否認し続けた半平太であったが、慶應元年(1865年)閏5月に切腹を命ぜられた。享年37歳。
横浪県立自然公園 高 知 県 |
月形半平太はよく知らないが、「月さま、雨が」「春雨じゃ、濡れて行こう」のセリフだけは知っている。 |
花依清香愛人以仁義 栄幽囚何可耻只有赤 心明 瑞山 |
花は清香に依って愛せられ、人は仁義を以って栄ゆ。 幽囚何ぞ恥ずべき、只赤心の明らかなるあり。 |
映すたらいの水かゞみ 花は清香人仁義 幽閉何ぞ恥づべけん みよ橘は永久に咲く |