2020年愛 媛

機関車〜大和田建樹詩碑〜
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宇和島闘牛


 その時であった。会場の静けさは破れて、喚声と共に観衆は総立ちになった。見るとリングでは、ついに一匹の牛の力の均衡は破れて、猛り気負うた一匹の勝牛は、勝利の興奮を押さえかねて竹矢来の中をぐるぐると廻りに廻っていた。

井上靖『闘牛』

昭和24年(1949年)、第22回芥川賞受賞作。

JR宇和島駅前に小さな機関車がある。


宇和島城築城400年祭記念
鉄道唱歌(大和田建樹・作詞)生誕100年記念事業

 この模型は宇和島で一番初めに走った機関車[コッペル社製9.66t 形式ケ220]を資料に基づき極力復元に努めたものです。

 本物はドイツのオーレンシュタイン・ウント・コッペル社で作られ、大正3年の5月に最初の試運転が行われました。初めて機関車が走ったとこの人々のおどろきと喜びを思い浮かべてみてはいかがでしょうか。

 宇和島鉄道は、明治の終わりから大正・昭和の初期にかけて全国に敷設された、レールの幅が狭く、車両も小さい軽便鉄道でした。

 当時南予地方は陸上交通の便が悪く、鉄道敷設への人々の熱意は四国の鉄道敷設運動の中でも特筆すべきものがありました。その結果大正3年10月18日念願の私設宇和島鉄道が宇和島−近永間17.3kmで開業、大正12年には近永−吉野間が開通しました。その後昭和8年8月政府による買収が実現し、宇和島鉄道は18年の使命を終えました。

 昭和32年(1957年)10月14日、鉄道開業85周年記念日に鉄道唱歌の作詞家、大和田建樹生誕100年を記念して鉄道唱歌の碑を新橋駅に建立。

大和田建樹詩碑


汽笛一聲新橋を
はや我汽車は離れたり
愛宕の山に入り残る
月を旅路の友として

鉄道唱歌

わがふる里の城山に
父と登りてながめたる
入江の波の夕げしき
忘れぬ影は今もなお

散歩唱歌

昭和40年(1965年)10月、建立。

大和田建樹は安政4年(1857年)宇和島丸之内藩士の家に生まれた。

少年時代藩校に入って国学漢学を学び、のち広島に遊学して英学を修めたが、早くから秀才のきこえ高く、14歳にして既に藩公の前で四書の進講をした。22歳のとき上京して更に国文学の研究を重ね、東京大学講師・高等師範学校教授の職を勤めた。

中年以降は専ら著作にたずさわって謡曲通解・日本大辞典等幾多の名著を出し、中央文壇に名声を博した。その生涯を通じて書き続けた文学書・歌集・紀行文の数は百余巻におよび、明治文学史上に多彩の業績を残したが、一面優雅流麗な唱歌作品もまた多く、なかにも鉄道唱歌・散歩唱歌・故郷の空などは、ひろく学童の間にうたわれて、当時は老若ひとしく愛唱全国を風靡した観があった。これらの歌詞は今なお国民大衆に親しまれている。

明治43年(1910年)53歳で没した。

明治37年(1904年)7月、軍歌「日本陸軍」が発表された。作詞は大和田建樹。

天に代わりて不義を討つ
忠勇無双の我が兵は
歓呼の声に送られて
今ぞ出で立つ父母の国
勝たずば生きて還(かえ)らじと
誓う心の勇ましさ

宇和島市丸之内の南予護国神社に碑があったようだ。

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