「米屋旅館」のホームページに「大正時代には、与謝野晶子、鉄幹夫妻がご宿泊になり、ここで詠まれた歌が当館に残されています。」と書いてあるが、牧水のことは書いてない。
昭和31年(1956年)、米屋旅館は火事で全焼。写真の建物は若山牧水、与謝野鉄幹、晶子夫妻が宿泊した当時のものではない。2004年5月「米屋旅館」は廃業。写真の建物も取り壊されてしまった。
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戦前の米屋旅館@【与謝野晶子ネット提供】

幽邃なる嵐氣に包まれたる 日光中禅寺米屋旅館
戦前の米屋旅館A【与謝野晶子ネット提供】

若山牧水、与謝野鉄幹、晶子夫妻が宿泊した建物であろう。
江戸時代の初め、男体山の修行僧・関係者への茶屋が6軒許可になり、その内の1軒が明治5年の男体山女人禁制解除とともに旅館となったのが「米屋旅館」と言い伝えられている。
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廃業してしまったから現在はホームページもないので、確かめようもない。
牧水は10月29日3時過ぎに中禅寺湖畔米屋に来て、5時半奥さんに絵葉書を出している。
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10月30日
『みなかみ紀行』の旅を振り返って、中禅寺湖畔米屋から同郷の友人に絵葉書を出している。
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中禅寺湖畔米屋の後、米屋旅館主人の親類で下野新聞の記者、板挽町(現・日光市匠町)の斎藤雄吉宅に泊まっている。
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しぐるるや朝酒長き習わしの江塘が家の古板びさし
「江塘」は斎藤雄吉の号。
「泣虫山の鹿」と題した4首のうち、初めの2首
聞きのよき鳴虫山はうばたまの黒髪山に向ふまろ山
鹿のゐて今も鳴くとふ下野の鳴虫山の峰のまどかさ
鳴虫山

日光市花石町の花石神社境内に牧水の歌碑がある。
第14歌集『山桜の歌』には「鳴虫山は大谷川を距て女峯山男体山に向ふ、折々その山にて鹿の鳴くを聞く事ありと友の言へるを聞きて。」とある。
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この「友」が斎藤雄吉である。
日光宇都宮道路日光ICと清滝ICの間に泣虫山トンネルがある。
この辺りで鹿は見られないが、戦場ヶ原には鹿がいた。

牧水は斎藤雄吉宅に2泊して、日光を離れたのは11月2日。
11月3日
牧水は11月2日宇都宮、3日喜連川に泊まり、翌4日朝、喜連川から奥さんに葉書を出している。
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はるかなる旅を辿り來いまこゝにこの友どちと遭へるたのしさ
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