徳山動物園前に「踞(うづくま)ればふきのたう」白船と彫ってある自然石の碑があります。白船は、本名を周一といい、明治17年(1884年)山口県熊毛郡平生町佐合島に生まれました。 山口中学在学中から俳句を作りはじめ、のちに萩原井泉水の新傾向俳句誌「層雲」の仲間として活躍されました。 大正5年子女の教育のため徳山に移住し、佐渡町(現本町)に文房具と書籍の店を開業、そのかたわら、「雑草の会」を主宰しました。白船は昭和16年58歳で死亡されましたが、遺された書きものに「ふきのたう」があります。 |
昭和8年(1933年)9月12日、種田山頭火は久保白船を訪れた。 |
末田海岸の濤声、こゝにも追懐がある。 荷馬車にひつかゝつて、法衣の袖がさんざんにやぶれた。 彼岸花が咲いてゐる、旅の破法衣と調和するだらう。 富海から戸田まで汽車、十時から一時まで福川行乞、行乞がいやになつて、そこからまた汽車で徳山へ、二時にはもう白船居におさまることが出来た。 酒はうまい、友はなつかしい。 暮れて徳山へついた。
『行乞記 広島・尾道』 |
新しい 法衣いつはいの陽か あたゝかい |
昭和10年(1935年)2月9日、種田山頭火は久保白船を訪れた。 |
天気模様もよくないし、からだのぐあいもよくないけれど、思ひ立つては思ひ返さない私だから、時計を曲げて汽車賃をこしらへ、徳山へ行く。 福川で下車して歩るく、途中富田で青海苔を買ふ、降りだしたのでバスに乗る。 白船君とは殆んど一年ぶりの対談。 夜は雑草句会、例によつて例の如し。 白船居は娘さんが孫を連れて同居してゐられるので、或る宿屋へ案内して泊めて貰ふ、すまなかつた、何もかも人絹のピカピカするなかで寝る。 今夜はよく食べた、自分ながら胃袋の大きいのに呆れた。…… 友はよいかな、旧友はことによいかな。 奥さんに嫁の事を頼んで、さんざヒヤカされた。 ・雪ふれば雪を観てゐる私です
『其中日記(八)』 |
昭和14年(1939年)3月31日、種田山頭火は久保白船居を訪れた。 |
夕方になつてやうやく出立、藤井さんに駅まで送つて貰つて。―― 春三君の芳志万謝、S屋で一献! 白船居訪問、とめられるのを辞して、待合室で夜明の汽車を待つて広島へ。 春の夜の明日は知らない かたすみで寝る 句はまづいが真情也。 |