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松代城は、甲斐の武田信玄が越後の上杉謙信との「川中島の合戦」の際に武田方の前進基地として築かれた海津城がその始まりといわれており、永禄3年(1560年)頃に普請が完了したものと伝えられています。
慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いの後、城主となった森忠政の頃、二の丸・三の丸を整備し、土塁をを石垣に築きなおしたものと考えられています。元和8年(1622年)に真田信之が上田より移封されて以降、明治の廃城までの約250年間、松代藩真田家10万石の居城となりました。 松代城は、西北側を流れる千曲川を自然の要害として造られた平城で、最奥部に本丸、南側の城下に向けて二の丸・三の丸・花の丸などの曲輪を構えていました。 明治5年(1872年)の廃城以降、建物はなくなったものの、昭和56年(1981年)に本丸を中心とした旧城郭域の一部が新御殿とともに国史跡に指定されています。
長野市教育委員会 |
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元和8年(1622年)、酒井忠勝は信濃国松代藩より3万8千石の加増を受け、庄内に13万8千石で入封。 |


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昭和22年(1947年)11月12日、葛三居士百三十年忌追善記念に葛三顕彰會・十万石吟社共同建立。 |





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城址の片隅に真新らしい自然石の歌碑が見えたので近づくと、若山牧水の歌碑であった。「山出で来て尾長の鳥の遊ぶらん松代の町の春をおもふよ」とある。碑陰には「昭和38年5月3日、中村柊花建」とあるだけでゆかりは記されていないが、牧水は大正14年(1925年)6月に松代を訪れて万屋旅館に泊り、松代実科女学校で講演や歌の揮毫展を催しているから、その旅のゆかりによる歌碑でもあろう。……
『信濃路文学散歩』(野田宇太郎) |
