2013年和歌山

和歌山城〜まりと殿さまの歌碑〜
indexにもどる

和歌山に来たので、和歌山城(HP)に立ち寄ってみた。


 貞享元年(1684年)10月21日、徳川吉宗は紀州藩二代藩主徳川光貞の四男として生まれる。

 宝永2年(1705年)、紀州徳川家を相続し第五代藩主に就任する。

 享保元年(1716年)、第八代征夷大将軍に就任。

追廻門


和歌山城史跡解説 「追廻門」

 追廻門は西から和歌山城(砂の丸)に入る門で、大手門の反対側の搦手に位置します。門を出て道を隔てた外側に、馬術を練習する追廻があったので、この名がついた高麗門形式の門です。元和5年(1619年)に紀州徳川家初代頼宣が入国し、和歌山城を拡張して砂の丸や南の丸の内郭に取り込みました。当然、追廻門もその際に建立されたもので、岡口門とともに空襲でも焼けずに残った旧藩時代の数少ない遺構です。追廻門は藩主が座る二の丸御座之間の南西に位置し、陰陽道の裏鬼門にあたるので、除災のため朱色に塗られたと考えられています。

 吉宗に次いで14代将軍家茂を出した紀州徳川家は、幕末には当然幕府側につきました。第二次長州戦争には先鋒隊として出陣しますが、戦費で藩財政が苦しくなり、その敗北で兵制改革の必要性を痛感します。このため藩政改革が求められ、慶応2年(1866年)に津田出を登用しました。だが翌年、保守派の反撃で津田は失脚し、急進改革派であった奥右筆組頭の田中善蔵が、追廻門で暗殺される事件が起こります。左手の石垣に近い垣根の奥にある石碑は、田中善蔵の顕彰碑です。

 昭和2年(1927年)8月15日、高浜虚子は和歌山城内葵館で和歌山九年母会主催俳句会。

八月十五日。和歌山九年母会主催俳句会。和歌山城内葵館。会者、
泊月、王城、耿陽、楽南等七十余名。

 蜻蛉とぶ紀の川広き眺かな


天守閣


和歌山城史跡解説 「天守郭と天守閣」

 天正13年(1585年)、羽柴(豊臣)秀吉の命で弟の秀長がまず築城したのが、虎伏山の山頂部分でした。秀長は家老の桑名重晴を城代として置き、ここに天守を建てました。天守閣の一段下の北西にあった蔵が、その時の天守だとの説があります。慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いの後に城主となった浅野幸長は、高さ49mある西方のこの峰を「本丸」とし、黒板張りですが、ほぼ現在に近い天守閣を建てました。

 元和5年(1619年)に徳川頼宣が入国すると、「天守郭」と呼ぶようになります。天守閣は大天守から時計回りに多門、天守二之御門(楠門)、二之御門櫓、多門、乾櫓、多門、御台所、小天守へと続く連立式天守です。三階建ての大天守は不定形な地盤に制約され、一階の東側と西側が二棟を結合した珍しい比翼入母屋造となっています。

 寛政10年(1798年)に黒板張から白壁となりますが、弘化年(1846年)の落雷で焼失しました。天守再建は通常は許可されませんが、御三家ということで認められ嘉永年(1849年)にほぼ元のまま再建されます。ただし、楠門へ入る階段の位置が異なるなど、一部違いがありました。天守閣は昭和10年(1935年)に国宝に指定されますが、昭和20年7月9日の和歌山大空襲で焼失しました。しかし昭和33年、市民の努力で復元されたのです。

 昭和38年(1963年)9月27日、西條八十は長女嫩子(ふたばこ)を同道して和歌山を一週。

「まりと殿さまの歌碑」があった。


てんてんてまりは殿様に だかれてはるばる旅をして

紀州はよい国日のひかり 山のみかんになったげな

赤いみかんになったげな

 昭和38年(1963年)10月1日、紀陽銀行頭取山口孫一が母堂シゲ喜寿の祝いに寄贈。

まりと殿さまの歌碑

 西條八十作詞、中山晋平作曲による童謡「まりと殿さま」(昭和4年)の第5番目の歌詞を西條八十が直筆し、それを歌碑にしています。

 昭和38年(1963年)10月1日に市民の寄附により建立されました。新聞によると第5番目の歌詞を選んだ理由を西條八十は、「紀州はロマンティックな国であり、ぼくの好きな土地の一つだよ…(中略)…だから、『紀州はよい国日のひかり』という第5節を選んだのだよ」と述べています。

 今も天守閣からこの曲がチャイムで流されています。

小天守と大天守


 和歌山城天守閣は、大天守、小天守、乾櫓、二の門櫓、楠門を多聞によって連結させた連立式天守閣である。

 各層の屋根には唐破風、千鳥破風を交互に配し、上層階には物見のための高欄をめぐらし、大天守の隅には石落としを設けるなど、江戸初期頃の様式を残している。

 とくに、和歌山城天守閣の特徴は、ひし形の敷地に左右され、乾櫓(北西)と大天守(南東)が張り出し、城下の北東と南西からの姿に雄大さを増すように工夫されている。

 現在の天守閣は、昭和20年7月に戦災で焼失した天守閣(国宝)を、昭和33年10月に鉄筋コンクリート造で復元したものである。

   再建年月日 昭和33年10月1日

   天守台面積 2,640平方メートル

   大天守閣高 23.42メートル(海抜72.32メートル)

西ノ丸庭園


名勝西ノ丸庭園沿革

 この庭園は、紀州徳川藩祖頼宣公が、西之丸御殿に築造したもので、昔から紅葉渓の名で親しまれてきた。浅野時代に築かれた内堀の一部と虎伏山の山稜地形を巧みに利用した起伏の変化に富んだ庭で、南西の高台地には雄健な3つの滝とその落水を導く渓流、美しい出島と巨大な舟石が浮かぶ池、柳島のある堀池からなり、急峻な斜面や護岸には緑色や紫色などの紀州の名石で、豪快な石組みが施されている。

 紅葉渓橋・土橋・石橋をかけ、鳶魚閣・腰掛・茅門の建物が要所にそなわり、古い樹林が興趣を添え、その破墨山水的景観は、江戸時代初期に作庭された名園である。なお、茅門南の鶴之渓は、浅野氏により造られた城壁に囲まれ、当時、「鶴之餌鉢」を置き、鶴が飼育されていた由緒あるところである。

大天守・小天守と乾櫓


昭和34年(1959年)1月、山口誓子は和歌山城を訪れた。

   和歌山城

虎杖(いたどり)は城壘の花石の花

『方位』

平成18年(2006年)2月13日、和歌山城は日本100名城に選定された。

2013年和歌山に戻る