私の旅日記〜2013年〜
和歌山城〜まりと殿さまの歌碑〜
和歌山に来たので、和歌山城(HP)に立ち寄ってみた。
追廻門
和歌山城史跡解説 「追廻門」
追廻門は西から和歌山城(砂の丸)に入る門で、大手門の反対側の搦手に位置します。門を出て道を隔てた外側に、馬術を練習する追廻があったので、この名がついた高麗門形式の門です。元和5年(1619年)に紀州徳川家初代頼宣が入国し、和歌山城を拡張して砂の丸や南の丸の内郭に取り込みました。当然、追廻門もその際に建立されたもので、岡口門とともに空襲でも焼けずに残った旧藩時代の数少ない遺構です。追廻門は藩主が座る二の丸御座之間の南西に位置し、陰陽道の裏鬼門にあたるので、除災のため朱色に塗られたと考えられています。
吉宗に次いで14代将軍家茂を出した紀州徳川家は、幕末には当然幕府側につきました。第二次長州戦争には先鋒隊として出陣しますが、戦費で藩財政が苦しくなり、その敗北で兵制改革の必要性を痛感します。このため藩政改革が求められ、慶応2年(1866年)に津田出を登用しました。だが翌年、保守派の反撃で津田は失脚し、急進改革派であった奥右筆組頭の田中善蔵が、追廻門で暗殺される事件が起こります。左手の石垣に近い垣根の奥にある石碑は、田中善蔵の顕彰碑です。
天守閣
和歌山城史跡解説 「天守郭と天守閣」
天正13年(1585年)、羽柴(豊臣)秀吉の命で弟の秀長がまず築城したのが、虎伏山の山頂部分でした。秀長は家老の桑名重晴を城代として置き、ここに天守を建てました。天守閣の一段下の北西にあった蔵が、その時の天守だとの説があります。慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いの後に城主となった浅野幸長は、高さ49mある西方のこの峰を「本丸」とし、黒板張りですが、ほぼ現在に近い天守閣を建てました。
元和5年(1619年)に徳川頼宣が入国すると、「天守郭」と呼ぶようになります。天守閣は大天守から時計回りに多門、天守二之御門(楠門)、二之御門櫓、多門、乾櫓、多門、御台所、小天守へと続く連立式天守です。三階建ての大天守は不定形な地盤に制約され、一階の東側と西側が二棟を結合した珍しい比翼入母屋造となっています。
寛政10年(1798年)に黒板張から白壁となりますが、弘化年(1846年)の落雷で焼失しました。天守再建は通常は許可されませんが、御三家ということで認められ嘉永年(1849年)にほぼ元のまま再建されます。ただし、楠門へ入る階段の位置が異なるなど、一部違いがありました。天守閣は昭和10年(1935年)に国宝に指定されますが、昭和20年7月9日の和歌山大空襲で焼失しました。しかし昭和33年、市民の努力で復元されたのです。
「まりと殿さまの歌碑」があった。