2014年富 山

富山城址〜千歳御門〜
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富山市丸の内に富山城址公園がある。


 慶長10年(1605年)、前田家二代藩主利長は利常に譲り、金沢城から移り住み隠居城とした。

 慶長14年(1609年)3月、富山城が焼失したため、前田利長は高岡城を築いて移る。

千歳御門


 市指定文化財

千歳御門(埋門)

 富山藩10代藩主前田利保が隠居所として造営した千歳御殿(現、桜木町に所在)の正門で、嘉永2年(1849年)に建築されました。当時は、下図に示すとおり城址大通りの東側に位置していました。

 総欅造りの三間薬医門で、屋根は切妻造本瓦葺、桁行6メートル、梁間1.9メートルになります。同一建築様式の城門は「東大の赤門」として知られる旧加賀屋敷御守殿門(国重要文化財・東京都文京区)など数少ないことから、県内はもとより全国的に見ても貴重な江戸時代の城門です。

 この門は、明治時代初期に赤祖父家に移されましたが、その後、富山市が所有者から寄附をうけ、平成18年から20年にかけて城址公園内に移築しました。

 富山城で唯一現存する千歳御門の創建当初の建造物です。江戸時代後期の御殿正門の様式や意匠及び技法を知るうえで価値が高く、平成20年10月29日に指定されました。

 富山城や千歳御門に関する展示は、郷土博物館で行っています。

富山市教育委員会

富山城


 国登録文化財

富山市郷土博物館(富山城)

 昭和29年、富山城址一帯で富山産業大博覧会が開催されました。これは、昭和20年8月2日未明の空襲によって、壊滅的な被害を受けた富山市街の復興事業完了を機に開催されたものです。その際、記念の恒久建築物として建設されたのが富山市郷土博物館(富山城)です。旧本丸鉄門跡の石垣上に建てられた、鉄筋コンクリート造りの建物で、望楼を乗せた三重四階の天守、二重二階の小天守など、城郭の意匠でまとめられています。その外観は、彦根城や犬山城などの現存天守を参考に設計されており、戦後の天守閣建設のさきがけとなりました。博覧会の会期中は「美の殿堂」として各種の展覧会が開催され、最上階からは富山市街のみならず立山連峰が一望できたため、多くの人でにぎわいました。

 会期終了後は郷土博物館として活用され、郷土のことを紹介する中心的な博物館であるとともに、中心市街地のランドマークとして広く市民に親しまれています。

 平成15年からは約2年をかけて耐震改修工事を行なうとともに、内装を一新し、より多くの人が訪れやすいよう整備が行われました。

 建設から半世紀を経た本建物は、富山市のシンボルとして、また、戦災復興期を代表する建築物として、平成16年に国の登録文化財として登録されました。

富山県教育委員会
富山市教育委員会

富山藩二代藩主前田正甫像


――売薬を花開かせたお殿様――

前田正甫 1649生〜1706没 【藩主在任1674〜1706】

 富山藩第二代藩主。初代藩主である父利次の後をうけ、文武の振興を図り、新田開発や産業育成など、藩政の充実に力を注ぎました。正甫本人は古銭収集家という文化人としての性格も知られています。正甫は富山売薬の基礎を築いた人物としても有名です。それは「反魂丹伝説」という形で語り継がれています。元禄3年(1690年)、正甫が参勤交代で江戸城に登城した折、とある大名が激しい腹痛を訴えました。そこで懐中に常備していた「反魂丹」をすすめたところ、たちどころに治りました。その様子を見た諸大名は「反魂丹」の効能に驚き、自分の領内での販売を求めるようになったため、正甫の命で諸国に行商させたのが富山売薬の始まりであるという伝説です。この伝説により、正甫は「富山売薬を広めたお殿様」として、いまでも市民の間から親しまれているのです。

 この正甫像は、昭和29年(1954年)に建てられました。原型は佐々木大樹、鋳造は高岡鋳芸社によるもので、台石を合わせて高さ約10mに及びます。

富山市

 昭和8年(1933年)11月1日、与謝野寛・晶子夫妻は宇奈月温泉訪れ、3日富山、5日高岡へ。

黄昏に總曲輪(おうがは)町もしづかなり深雪降る日の夢をみるごと

立山の神代のゆきのまへに煉る反魂丹の香ばしきかな

月さしぬ城の郭内外(うちと)をばいみじき雪の溪に變へつつ

内濠(うちぼり)の蓮枯るる時立山の雪かがやくと見知るまちかな

「いぬあじさゐ」

越中万葉の歌碑へ。

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