かつて江戸近郊の農村であった落合は、明治以後も郊外の風致をよくとどめ、のどかな田園風景と閑静な住宅地がひろがる地域でした。 このような落合には、過密化の進む都心を離れ、静かな創作環境や魅力ある風景を求めて、たくさんの文化人が移り住みました。 |
大正2年(1913年)、船橋聖一は下落合に居住。 大正11年(1922年)、會津八一は東京郊外の落合村に転居し、「落合秋艸堂」と名付けた。 大正15年(1940年)、安倍能成は目白文化村に居住。晩年も下落合で暮らした。 昭和6年(1931年)、壺井繁治・栄は上落合に住む。 昭和9年(1934年)、安井曾太郎は下落合に居住。 昭和10年(1935年)、会津八一は文化村秋艸堂(別名・慈樹園)に移る。 |
この建物は『放浪記』『浮雲』などの代表作で知られる作家・林芙美子が、昭和16年(1941年)8月から昭和26年(1951年)6月28日にその生涯を閉じるまで住んでいた家です。 大正11年(1922年)に上京して以来、多くの苦労をしてきた芙美子は、昭和5年(1930年)に落合の地に移り住み、昭和14年(1939年)12月にはこの土地を購入し、新居を建設しはじめました。 新居建設当時、建坪の制限があったため、芙美子名義の生活棟と、画家であった夫・緑敏名義のアトリエ棟をそれぞれ建て、その後すぐにつなぎ合わせました。 芙美子は新居の建設のため、建築について勉強をし、設計者や大工を連れて京都の民家を見学に行ったり、材木を見に行くなど、その思い入れは格別でした。このため、山口文象設計によるこの家は、数寄屋造りのこまやかさが感じられる京風の特色と、芙美子らしい民家風のおおらかさをあわせもち、落ち着きのある住まいになっています。芙美子は客間よりも茶の間や風呂や厠や台所に十二分に金をかけるように考え、そのこだわりはこの家のあちらこちらに見ることができます。 |
昭和26年(1951年)6月28日、47歳で没。7月1日、自宅で告別式が執り行われた。葬儀委員長は川端康成。 |
NHK映像ファイル≪あの人に会いたい林芙美子≫で、芙美子が亡くなる4日前にラジオ番組「若い女性」に出演した時、その様子を広報用に白黒フィルムで撮影していた。その映像とともに、芙美子の「泣くだけ泣かなきゃいい人間になれませんよ」という言葉が紹介されている。 |