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享徳3年(1454年)、鎌倉公方足利成氏が関東管領上杉憲忠を暗殺したのをきっかけに、関東では利根川を境に室町幕府の関東の拠点である鎌倉を押さえた上杉氏と、下総国古河に追いやられた古河公方成氏が対峙する「享徳の乱」が始まった。この頃、道灌は家督を譲られ、長禄元年(1457年)に千葉氏に対抗する拠点として江戸氏の館があった今の江戸城本丸近くに江戸城を築く。築城の際、現在の赤羽、湯島、品川、川崎夢見が崎等が候補地となったが、地形などを考慮して江戸に決めたとされている。 築城後、日枝神社をはじめ、築土神社、平河天満宮、市ヶ谷亀ヶ岡八幡など今も残る数多くの寺社を周辺に勧請した(現在はいずれも移転)。神仏の力を借りるということもあるが、戦国時代にみられる要地に寺社を配して陣所や砦にするという狙いもあった。また、連歌会に招かれた京都の高僧らの記述からは、江戸湊での通商が栄んであったこと、道灌の江戸城が大層堅固で城下町も大変に賑わっていたことなどがうかがわれる。 |
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この頃から道灌を名乗り始め、京都の将軍家から内紛収束を命じられて駿河の今川家に出兵するが、のちに北条早雲と名乗る伊勢盛時と事態の収束策を練って合意している。しかしこの道灌の留守を狙って、今度は道灌と親戚関係にあった長尾一族の長尾景春が山内家の家宰職を得られなかったことを恨み、文明8年(1476年)に挙兵し、上杉家内部の抗争が勃発する(長尾景春の乱)。武蔵五十子(いかっこ、埼玉県本庄市)にいた上杉一族の敗走をみて道灌はすぐに兵を動かし、まず相模国の景春側の拠点を攻略して後顧の憂いを無くすと、文明9年(1477年)には景春に呼応した豊島氏の軍勢を引くと見せて迎え撃つといった策で江古田・沼袋で打ち破り、さらに本拠地石神井城も陥落させ、武蔵国南部を一気に制圧する。 用土原(埼玉県寄居町)の戦い以後、上野(こうずけ)まで進軍した道灌を前に身動きが取れなくなった景春側をみて同盟関係にあった古河公方は和議を持ちかけている。それでも景春は抵抗していたため、道灌は敵方の有力武将である千葉孝胤を文明10年(1478年)に下総の境根原(千葉県柏市)で破った後、文明12年(1480年)に最後の拠点である日野城(埼玉県秩父市)を攻め落とし、ついに景春は没落した。この後、古河公方成氏と上杉家との間で和議が成立し、「享徳の乱」は終わった。 道灌の活躍で、主君である扇谷上杉家の勢力は増したが同時にその力を恐れる目も生まれることとなった。 文明18年(1486年)7月26日、扇谷上杉定正の糟屋館(神奈川県伊勢原市)に招かれた道灌は、風呂に入って出て来たところを暗殺されてしまう。享年55歳。斬りつけられた際、道灌は「当方滅亡」と叫び、上杉家の没落を予言したが、その後1年も経たないうちに山内家と扇谷家は戦端を開き20年に亘る長享の乱が勃発する。その隙を突いて伊豆にいた北条早雲が関東に進出し、その後裔である北条氏康に上杉家は関東を追われてしまうのである。 |