下 町文京区
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佐藤春夫旧居跡〜旧関口台町〜

 関口台町
(昭和41年までの町名)
 もと、関口村の畑地。天和2年(1682年)町屋を開き、享保5年(1720年)から町奉行支配となった。町名は関口村の高台(目白台地)にあったからといわれる。関口の名称は、むかしこの辺りに奥州街道の関所があったからとも、また神田上水の大洗堰があったからともいわれる。

 芭蕉庵や水神社一帯は椿山といわれた。

文京区

文京区関口3丁目に佐藤春夫旧居跡があった。


 佐藤春夫(1892〜1964)詩人・小説家。昭和2年から、終焉の昭和39年5月6日まで住み、詩作、創作に励んだ異国風の住居のあった地。旧居は、昭和60年、生地和歌山県新宮市に移築、保存されている。

 春夫は、明治43年(1910)上京、団子坂上の森鴎外の観潮楼向かいに下宿して、慶応義塾大学に学ぶ。与謝野鉄幹永井荷風らに師事し、詩、小説に数多くの名作を残した。文芸時評、文芸史論の評価も高い。代表作は「殉情詩集」(大正10年)、「田園の憂鬱」(大正8年)、「晶子曼蛇羅」(昭和29年)など。昭和23年、芸術院会員。昭和35年、文化勲章受賞。

 上京以来、2度ほど区外に出たほかは、47年間、千駄木、向丘、本駒込などに住み、文京区歌の作詞者(昭和26年制定)としても親しまれてきた。

 京都府知恩院が本墓であるが、伝通院にも分骨され、夫人とともに眠る。

−郷土愛をはぐくむ文化財−

東京都文京区教育委員会

文京区区歌


昭和39年(1964年)5月20日、佐藤春夫は72歳で没。

東京カテドラル関口教会へ。

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