正岡子規ゆかりの地



明教館

松山東高等学校の通用門右手に「明教館」がある。


 旧幕時代、教育制度という点では、日本はあるいは世界的な水準であったかもしれない。藩によっては、他の文明国の水準をあるいは越えていたかもしれなかった。

 伊予松山藩では、

「明教館」

という藩校がある。藩士の子弟はことごとくそこに入る。明教館には小学部が付属しており「養成舎」といった。普通、教え年八つになれば入学した。

司馬遼太郎著『坂の上の雲』(文藝春秋刊)単行本:1巻より

昭和12年(1937年) 移築当時の明教館


 文政11年(1828年)、11代藩主松平定通が藩士の教育機関として創設した藩校。数多くの人材を輩出し、明治以後も松山における近代教育の中心として発展した。この建物は明教館の講堂で、当時の面影を現在に伝えている。当時は一番町にあったが、昭和12年(1937年)にこの地に移築された。

 『坂の上の雲』にもゆかりが深く、正岡子規の外祖父である大原観山が明教館の教授として子弟の教育にあたったほか、幼少の秋山好古が通った学校でもある。

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