の知遇を得、25才で同社記者となり日清戦争に従軍するも、大喀血し病床についた。脊髄カリエスで歩行困難となり、不治の病と闘いながらも「病床六尺」などに優れた随筆・評論を書き続け、明治35年 9月19日35才の短い生涯を閉じた。
本句は国会図書館所蔵の子規自筆の「寒山落木」巻三(明治27年)春の風連句の一句で、子規の直筆そのままを句碑とした。
子規は明治27年春秋と明治33年に川崎を訪れ、大師詣での道すがら多くの句を詠んでいる。
川崎や 畠は梨の 帰り花
川崎や 小店小店の 梨の山
多摩川を 汽車で通るや 梨の花
麦荒れて 梨の花咲く 畠哉
百舌鳴くや 晩稲掛けたる 大師道
朝霧の 雫するなり 大師堂
いずれも果物好きの子規らしい句であると同時に、米麦農業から果樹農業への転換を図った当時の川崎を知ることができる。
短い生涯の最後の血一滴まで、文芸革新の道を追求した子規の情熱に敬意を表し、ここに句碑を建立する。
平成14年9月19日
大川崎宿祭実行委員会 代表 斎 藤 文 夫
稲毛神社 宮司 市 川 緋佐麿