正岡子規ゆかりの地
蛤の荷よりこぼるるうしほかな
桑名市殿町に貝繁本店がある。
暖簾に子規の句が書かれていた。
蛤の荷よりこぼるるうしほかな
『寒山落木 巻二』(明治26年 春)に収録されている句。
貝繁本店は時雨蛤の老舗。
時雨蛤は「はやりうた」にも唄われた。
七里のわたし浪ゆたかにして、來往の渡船難なく、桑名につきたる悦びのあまり、めいぶつの焼蛤に酒くみかはして、かの弥次郎兵衛と喜多八なるもの、やがて爰を立出たどり行ほどに、此頃旅人のうたふをきけば、はやりうた「しぐれはまぐりみやげにさんせ、宮のお龜が情所 ヤレコリヤ よヲし よヲし よし」
弥次喜多道中では桑名を経て富田(現在の四日市市)の茶屋でも焼き蛤を食べている。
弥次「ハヽヽヽ、はまぐりをもつとくんなせへ」女「ハイハイ 又やきたてのはまぐり大さらにもつていだす」弥次「おまへのはまぐりなら、なをうまかろふ ト女のしりをちよいとあたる」女「ヲホヽヽヽ、だんなさまは、よふほたへてじや」北八「おれもほたへよふ トおなじくしりをつめりにかゝれば」女「コレよさんせ。すかぬ人さんじや」北八「どふでも、おいらをばやすくしやアがる トぶつぶつこゞとをいふうちあたりの寺のかねがゴヲン」北八「あれはなん時だへ」女「もふ七ツでござります」
富田は桑名藩領であった為、富田の焼き蛤を、「桑名焼き蛤」と言った。
享和元年(1801年)3月6日、大田南畝は大坂銅座に赴任する旅で時雨蛤のことを書いている。
朝明川を越て、富田の立場にいたれば、こゝにも焼蛤をひさぐ。右のかたに酒屋といへる家名の座敷にはあげ畳などありて、大きなるやどりなり。初冬の比の味ことによろしければ、時雨蛤といふ。
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