正岡子規の句碑


凩にはひつくばるや土亀山

 松山市福音寺町の土亀山に正岡子規の句碑が建立されたというので、行ってみた。

正岡子規の句碑


凩にはひつくばるや土亀山

[寒山落木]巻一 明治25年(1892年)「終わりの冬 天文 地理」の中の一句。季語[凩](冬)。

(句解)激しく吹きつける凩に向かって、はいつくばって耐えているよ、土亀山は。

 明治22年歩兵第二十二連隊が測量した[松山近傍図]によれば、当時、土亀山のあたりは人家もまばらで、ひろびろと田畑が広がっていた。標高は約50mであるが、福音寺や土佐街道(国道33号線)から眺めると、まるで亀がはっているように愛らしく見えた。

 子規は、明治25年冬に帰省したとき、散策して見た土亀山の情景を思い出して、詠んだものか。

 石手寺、興居島、内川などの句とともに記されている。またこの年に11月、子規は母と妹を呼びよせて、東京永住を決意している。望郷の念の一入強い中での作と言えよう。

 この句には、故郷の風土に共感する子規の姿がうかがわれる。

しくるるや右は亀山星が岡

[寒山落木]巻四 明治28年(1895年)冬の句

(句解)しくるるやは、しぐれる雨のことで、突然強く吹いたり、やんでは、また吹く雨風のことで、土亀山より星岡山に向かって吹く戌亥(北西のかぜ)雨風のことであり、土亀山を東側から詠んだ句と言える。

 石鎚山や東温アルプスに雪が積ると暖かい松山でも寒くなって来る。

 子規さんが、土亀山を舞台に2句詠んでいることを考えると故郷を愛し[養痾雑記]に(世に故郷程こひしきはあらじ)と記している。

 最後の帰省の際にも、石手、城北、城南、道後、今出を吟行して、「散策集」を書いている。

石碑〜後面〜


五月雨の中に天山星が岡

[寒山落木]の[抹梢句] 明治26年(1893年)

 子規は「五月雨」の句を100句以上作っております。そのうち明治26年の作には、44句あります。この年は、大学を中退し、6月頃から俳句の分類に熱中し、7月下旬から1ヶ月間は東北地方へ旅行「はてしらずの記」をしています。

 したがって、この句は子規が東京に居て降りしきる五月雨を見ながら以前に故郷で見た五月雨に煙る天山と星が岡の姿を思い起こした。

 春や秋に見る天山と星が岡もいいが、激しく降る五月雨の中に堂々とした天山と星が岡の姿もいい。

 情景を懐かしく思い出して詠んだものと思われる。

毒茸の下や誰が骨星が岡

 明治25年(1892年) 秋

 漢詩「星岡懐古」は明治23年の作。

 この漢詩を先に読んで、次に俳句と関連づけて読むと、俳句の情景が浮かんでくるように思います。

 南北朝のころ、この星が岡古戦場で南朝方と北朝方との激戦が展開され、多くの死者出たのは記録に残る歴史上の事実。

 子規は、戦いに散った武士たちのことを哀れに思って、この漢詩を作ったようです。

 その時の南朝方の忠臣たちの霊が、無念な思いで今も頂上付近に残り漂っていて、山頂の老木に北風が吹くたびに怒りの声を上げている。と漢詩を詠み、2年後の明治25年には東京に居て、故郷の名所を思い出しつつ俳句を作りましたが、星岡山頂の辺りに生える茸は、南朝の武士たちの無念な思いや怒りを含んで「毒茸」となっていると想像し、その毒茸の下に埋まっている骨は、どの武士のものであろうか、と想像したようです。

 子規は、南朝方の忠臣たちに強く心寄せているように思われます。

 子規が星岡の古戦場に行ったことがあるかどうか、はっきり解りません。

漢詩 星岡懐古 明治23年(1890年)

天山之南松柏 (天山の南は 松が青く茂り)
五邱散布似列星 (五つの丘が散在して 星の列に似ている)
北控拓提田萬頃 (北は石手川の提を控えて 田が広がっており)
山川錯雑天険成 (山川は複雑に入り組み 天空は険しさがある)
虎撃龍闘跡歴歴 (ここで激戦があり その跡は歴然としている)
空見寒碑留英名 (小さい碑に 武士の名が空しく見えるのみで)
戦血蕭条碧苔肥 (戦いの血を流した跡は 苔が青く生えており)
南朝忠臣猶有霊 (南朝の忠臣たちの霊が 猶その辺に漂う)
山上老木五百歳 (山上の老木は 樹齢五百年の大木となり)
毎遇北風作怒声 (北風に吹くたび怒りの声を上げている)

 この句碑は、松山子規会・松山市美しい街並み賑わい創出事業補助金と福音寺川付自治会寄付金により、正岡子規生誕150周年を記念して、ここ土亀山に建立する。

平成30年3月吉日

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