2004年〜埼 玉〜
中山道浦和宿〜小林一茶〜

JR京浜東北線浦和駅西口からから埼玉県庁に向かうと、浦和駅西口交差点で県道164号鴻巣桶川さいたま線と交差する。
県道164号は旧中山道である。
県道164号沿いに「中山道浦和宿」の碑が建っている。

中山道は江戸日本橋から板橋へ出て、上野(こうずけ)・信濃・美濃を経、近江草津で東海道と合流し、大津を通って京都に至る。69宿があり、「浦和宿」は江戸日本橋から板橋、蕨と来て、3つ目の宿。
「木曽街道六十九次 浦和宿」池田栄泉

安永10年(1781年)1月18日、平橋庵敲氷は葛飾の庵を出て埼玉の鴻巣・忍を中心に遊歴。その日は浦和宿に泊まる。
其心はへのおこかましからねは名乗問ひけるに、大沢氏以一とそ答ふ。後藤の家に扈従して彫刻を事とするか、古郷也ける上毛の厩橋に行かよひ侍るとなん。こよひハ浦和の駅に共にくさまくらして歌仙一折興し侍る
享和元年(1801年)2月、井上士朗は江戸から浦和宿を通り、信州へ旅をする。
浦和宿を出れば富士山よく見ゆる。大宮宿のこなたよりちゝぶ山見ゆる。
明治21年(1888年)、浦和宿の大火で宿の3分の2を焼き尽くした。
それ以前の建物は、きわめて稀である。
わずかではあるが、今でも古い建物が残っている。
青山茶舗

明治24年(1889年)の1月に建てられた建物だそうだ。
浦和くらしの博物館民家園に浦和宿の商家が2軒保存されている。
旧高野家住宅

建築中に安政の大地震が起こったという言い伝えがあるそうだ。
現存する中山道浦和宿の商家としては最も古いもの。
旧綿貫家住宅

浦和宿の大火の際に焼け残ったと伝えられる。
解体前の店舗

安永6年(1777年)、小林一茶は15歳の時江戸へ奉公に出る。
寛政3年(1791年)3月26日、一茶は江戸を発ち、4月11日に浦和宿の入口にある調神社で句を詠んでいる。4月18日、出郷してから初めて柏原に帰る。29歳の時である。
一茶は大宮あたりでも句を詠んでいる。
以後、何度も中山道を通って江戸と柏原の間を往復するが、当然浦和宿も通るわけである。
今は「浦和踊り」ばかりだが、昔は「浦和音頭」というのがあった。
江戸を離れて三里の宿場
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松の並木に烏が鳴いた
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今や自由の文化都市
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昭和9年(1934年)2月11日の浦和市誕生に合わせて「浦和音頭」が市民に配られたそうだ。
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