2021年大 阪

田蓑神社〜紀貫之の歌碑〜
indexにもどる

阪神本線千船駅下車。

大阪市西淀川区佃に田蓑神社(HP)がある。


平成7年1月17日阪神淡路大震災により倒壊。同年3月再建。

鳥 居


永正8年(西暦1511年)に建てられたもので、この年代の鳥居としては型も整っているものです。同類の鳥居は天王寺区の四天王寺に一基ある様です。

震災復興記念碑


宮つくる
 田蓑の嶋の
   神垣を
いのればやがて
   まもりますらし
日野資枝

平成12年(2000年)7月、建立。

 平成7年1月17日未明に震度6とも7ともいう大地震がおこりました。震源地は淡路島の一宮。よって阪神淡路大震災と名づけられました。

 この佃の町も1丁目・2丁目を中心に町全体に多大な被害を受け、当神社も社務所の全壊を始め社殿の傾き・標柱の倒壊、石鳥居・灯籠の傾き、参道の歪みと被害を受けました。町の復興を願いつつ、氏子崇敬者が再建に努められ同年秋の例大祭には参道を残し復興出来ました。

 その後 諸祭祀の為おくれましたが、21世紀を目前に参道復興工事に入り、無事夏祭り前に復興出来ました。ここにこれらを永く伝える為に200年程前に従一位日野資枝がよまれた和歌と左の標柱を建立しました。

田蓑神社 十八代宮司 平岡公仲

社 殿


御祭神 住吉の四柱

底筒之男命(そこづつのおのみこと)
中筒之男命(なかづつのおのみこと)
表筒之男命(うわづつのおのみこと)

神功皇后(じんぐうこうごう)

 十四代仲哀天皇の妻である神功皇后が新羅に出兵する際に、住吉の大神を守り神と奉り、遂に成し遂げ国の安定を築かれました。その帰途、この地に立ち寄られた折、海士が白魚を献上されてより、その海士を奉ったとされております。

貞観11年(869年)9月15日、鎮座。田蓑嶋神社という。

寛保元年(1741年)9月、住吉神社と改名。

明治元年(1868年)、田蓑神社となる。

芙 蓉


「佃漁民ゆかりの地」碑


佃漁民ゆかりの地

 天正14年、徳川家康公が大阪住吉大社、摂津多田神社の参拝の折 神崎川の渡船を勤めた縁により、後に漁業権の特権を与えられ、また将軍家への献魚の役目を命じられ、佃の人等33名と田蓑神社宮司平岡正太夫の弟権太夫好次が移住した。当初住居が与えられた安藤対馬守、石川大隅守の邸内に住吉4神の分神霊を奉戴して一時奉祭した。後に寛永年間に幕府より鉄炮洲の地をいただき埋め立て造成し 天保元年故郷の佃村にちなみ、「佃島」と命名し移住 (現、東京都中央区佃島)。また天保3年6月29日住吉大神の社地を定め、住吉の4柱の大神と徳川家康公の御霊を奉られた(現、東京佃島の住吉神社

 昭和40年、佃小学校と東京の佃島小学校とが姉妹校となり、以降毎年交互に訪問、交歓会を開催される。

 平成18年「佃漁民ゆかりの地」碑が、『未来に残したい漁業漁村の歴史文化財産百選』に大阪府で只一つ認定される。

紀貫之歌碑


雨により田蓑の
  嶋をけふゆけど
 なにはかくれぬ
   ものにぞありける

 土佐日記などで著名な平安時代前期の歌人で、この歌は『古今和歌集』に収録され、旅の途中田蓑嶋(現在の佃)に立ちよられ時の事を詠まれました。

「謡曲 芦刈ゆかりの地」碑


謡曲「芦刈」と田蓑神社

 昔、難波に仲の良い夫婦がいました。生活苦のため相談をして夫と妻は別々に働きに出ることにしました。夫は芦を売り妻は都へ奉公に出て、やがて妻は優雅に暮らす身分になりました。妻は夫が恋しくなり探すうちに、はからずも路上で巡り会いますが、夫はみすぼらしい身を恥じて隠れます。

 妻は夫婦の縁は貧富などによって遮られるものではないという意味の和歌を詠み交わすうちに、心も通い合い、目出度く元通り夫婦仲良く末永く暮らしたという「大和物語」の話より作られた謡曲が「芦刈」です。

 淀川支流の佃は川岸に沿って芦が群生していた所で、謡曲「芦刈」の舞台とした面影はないが、田蓑神社はその史跡として今に伝えられています。

謡曲史跡保存会

阪神本線千船駅


2021年大 阪〜に戻る