ああ、大和にしあらましかば、 |
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今神無月、 |
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うは葉散り透く神無備の森の小路を、 |
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あかつき露に髪ぬれて、往きこそかよへ、 |
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斑鳩へ。平群のおほ野高草の |
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黄金の海とゆらゆる日、 |
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塵居の窓のうは白み日ざしの淡に、 |
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いにし代の珍の御経の黄金文字、 |
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百済緒琴に、斎ひ瓮に、彩画の壁に |
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見ぞ恍くる柱がくれのたたずまひ、 |
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常花かざす芸の宮、斎殿深に、 |
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焚きくゆる香ぞ、さながらの八塩折 |
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美酒の甕のまよはしに、 |
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さこそは酔はめ。 |
明治10年(1877年)5月19日、岡山県浅口郡大江連島村(現在の倉敷市連島町)に生れる。 明治39年(1906年)5月17日、『白羊宮』刊。 昭和20年(1945年)10 月9日、連島の生家で息を引き取った。享年68。 昭和29年(1954年)11月23日、詩碑建立。 |
6枚の乱れ屏風の形よりなり、左から鋭角、直角、鈍角で、鋭角は泣菫の初期、直角は中期、鈍角は後期の作品を表現している。 その後期の部分には、泣菫の直筆で詩集『白羊宮』にのせられている代表作「ああ、大和にしあらましかば」が伊部焼として刻まれている。 詩碑の中央からやや左手に筆塚がある。これは橘太夫の厨子を最も単純美的に表現したもので、その地下には泣菫が生前使っていた筆を納めている。この詩碑は乱れ屏風の御影石の白と更緋折璧石でできている黒い筆塚のポイントは詩碑全体のバランスの美しさを示し、太陽の移動によって創られる陰影の変化は面白く、谷口吉郎博士の代表作の一つでもある。 |
三尺の山はあらしの、とすさばれ |
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し茶店に、大津の連衆とあそびて |
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初雪にあふみの茶店や銀世界 | 朱拙 |