文久2年(1862年)3月24日に土佐藩脱藩、各地を遊歴後、江戸に赴き、勝海舟の門人となった龍馬は、元治元年(1864年)2月23日に初めて長崎の地に入り、同年4月4日まで勝海舟とともに長崎に滞在する。慶応元年(1865年)、長崎に亀山社中を結成、同3年(1867年)1月中旬、長崎の料亭清風亭で土佐藩参政後藤象二郎と会談、その結果、龍馬の脱藩の罪は許され、4月初旬、龍馬は海援隊長に任命される。以後、土佐藩の支援のもと海援隊の業務を拡大していった。7月6日長崎丸山の地でイカルス号英国水夫事件が起き、その嫌疑が海援隊に向けられる。事件の真相解明は、最初、土佐で行われたが、後に長崎で行われ、2ヶ月後の9月7日海援隊への嫌疑は晴れるに至った。事件解決後、直ちに龍馬は活動を再開。9月18日に芸州藩から借り入れた露天丸で長崎を出帆し、これが長崎との最後の別れとなる。その後赴いた京都近江屋で11月15日襲撃され、暗殺される。(33歳)
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坂本龍馬像のみどころ
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公文菊僊(くもんきくせん)によって描かれた掛軸・坂本龍馬肖像画(高知県佐川町立青山文庫蔵)をモデルとした。折り目も真新しい袴で長崎丸山の風に吹かれながら闊歩した龍馬の姿をイメージして制作した。愛刀や小刀、懐中時計やピストルなど所持している姿ではあるが、右手に握っているものや、右の腹あたりの膨らみが、像を見る人の好奇心・想像力によって様々で、奥ゆかしいものでもある。
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丸山公園の隣に福砂屋がある。

カステラを燒く匂ひして福砂屋のまへはなつかし昔ながらに
「『形影抄』以後」 |
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