2013年長 野

広拯院月見堂〜碑巡り〜
indexにもどる

阿智村智里園原に月見堂がある。


路傍に「吾妻の碑」があった。


日本武尊が神坂峠の麓にお着きになって、乾飯を召しあがっておられると、この坂の魔物が鹿になって尊の行方をふさがれた。尊はすばやく食べ残りの蒜をかんで、その鹿の近づくのを待って投げ捨てると、その鹿の目にあたって死んで仕舞った。(晝神の地名の起り)やがて尊はこの神坂峠に登られ、東のほうをのぞまれ、駿河湾で死なれた妻のことを思いだし「あゝわが妻よ」と嘆かれた。それからこの峠から東のほうを「吾妻」と呼ばれるようになった。   日本書紀の中から

広拯院月見堂


 この月見堂は伝教大師(最澄)が建てた広拯院(こうじょういん)の跡地ともいわれています。

 伝教大師は東国への布教を計画して弘仁8年(817年)東山道を下りました。美濃の坂本から神坂峠を越えて阿智駅までの道程は予想以上の困難なものであることを体験、しかもその道中の長いのに難渋し、峠の両側に広済・広拯の二つの院(布施屋)を設けて旅人の便に供しました。

 月見堂は通称で、本来は薬師堂であり薬師如来をまつってあります。眺望がよく、かつて文人等がここで中秋の名月を賞した記録が残っています。

阿智村観光協会

本堂の左手に源仲正の歌碑があった。


木賊刈るそのはら山のこの間よりみがかれいづる秋の夜の月

『伊那温知集』に収録。『夫木和歌抄』には「みがきいでぬる」とあるそうだ。

卓池・翁の句碑


かゝやきのますはかりなりけふの月
   卓池

此道や行人なしに秋の暮
   翁

卓池の句が右にある。

芭蕉の句の出典は『其便』(泥足編)。

元禄7年(1694年)9月26日、浮瀬亭で巻かれた半歌仙の発句である。

 天保6年(1835年)、鶴田卓池は三州街道を経て園原の月を見て、『月見紀行』を遺しているという。

「磨き出る」と名を得たる月見むと、青布・青坡にすゝめられて園原の里にいたる。西に恵那の大山を負て、人家谷々にへだち、東に二の山あり。網掛・夜烏といふ。

山冷やひと暮過てあきのつき


天保12年(1841年)8月15日、宗円寺十三世明誉圭布建立。

八巣蕉雨の句碑


満月の片隅にある伏家かな

『文化句帖』(文化3年正月)に収録されている。

「慈覚大師円仁通過史蹟の碑」「木賊の碑」もあったが、よく読めなかった。

2013年長 野〜に戻る