2024年長 野

上田城南櫓〜上田城跡公園〜
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上田市二の丸に上田城跡公園がある。



 上田城址
   土屋竹雨
英雄父子據孤城
曽扼関東十萬兵
故國蒿莱剰楼櫓
亂山如戟勢崢エ



 上田城址
     土屋竹雨
英雄父子孤城に據り
(かつ)て扼す関東十萬の兵
故國蒿莱楼櫓を剰(あま)
  亂山戟(げき)の如く勢崢エ(そうこう)

上田城南櫓


慶長6年(1601年)、真田信之は昌幸の旧領(上田領)を引き継ぎ、三の丸跡地に居館(陣屋)を構えた。

元和8年(1622年)、真田氏は松代に移される。

寛永3年(1626年) 仙石忠政が上田に移封された。

真田石


 大手の石垣に巨石を用いる例は多く、城主はその権威を示すために、大きさを競ったという。真田石は、真田信之が松代に移封を命じられた際に、父の形見として持っていこうとしたが、微動だにしなかったという伝承がある。現在ある石垣は仙石忠政が造ったものであるが、真田石に寄せる人々の敬愛の情がうかがえる伝承である。
上田城東虎口櫓門


長野県宝 上田城三櫓(南櫓・北櫓・西櫓)

 上田城は、真田昌幸によって天正11年(1583年)から築城が開始され平城である。城廓自体の規模はさほど大きくはないが、南方は千曲川の分流である尼ケ淵に面した断崖に臨み、他の三方は城下町と河川を巧みに配して、周囲一帯を極めて堅固な防衛陣地としている。この上田城の特性は、天正13年(1585年)と慶長5年(1600年)の2回にわたる徳川氏との合戦の際に遺憾なく発揮され、真田氏と上田城の名は天下に鳴り響いたのである。

 しかし、真田氏の上田城は、関ヶ原の合戦後に徹底的に破壊され、現存する上田城の隅櫓や石垣は、寛永3〜5年(1626〜28年)にかけて仙石忠政によって新たに築き直されたものである。

 仙石氏による上田城築城は、忠政の病死により中断し、堀や石垣などの普請は(土木工事)は完成したものの、櫓や城門を建てる作事(建築工事)は本丸のみの未完成に終わった。本丸には、天守は建てられず、7棟の二層隅櫓と2棟の櫓門が建てられたことが、絵図などの記録と発掘調査によって確認されている。上田城は仙石氏の後、松平氏によって受け継がれ、明治維新を迎えた。

 現存する3棟の隅櫓のうち、本丸西虎口(城廓の出入口)に建つ1棟(西櫓)は、寛永期の建造当初からのものであるが、本丸東虎口の2棟(南櫓・北櫓)は、明治初期に民間へ払い下げられ、市内に移築されていたものを市民の寄付により買い戻し、昭和18〜24年にかけて現在の場所に復元したものである。これら3棟の櫓は、江戸時代初期の貴重な城廓建造物として、昭和34年長野県宝に指定された。

 三櫓の構造形式はいずれも共通で、二層二階、桁行五間、梁間四間の妻入り形式である。屋根は入母屋造りで、本瓦を葺き、外廻りは白漆喰塗籠大壁で、腰下見板張り、内部は白漆喰塗りの真壁となっている。窓は白漆喰塗りの格子窓で、突き上げ板戸が付いている。

 なお、本丸東虎口櫓門と袖塀は、明治10年頃に撮影された古写真と、石垣の痕跡、発掘調査の成果などをもとに、平成6年に復元したものである。櫓門と同時に整備された本丸東虎口の土橋には、両側に武者立石段と呼ばれる石積が設けられ、本丸大手口としての格式を示している。

上田市教育委員会

上田高等学校へ。

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