江戸時代の儒学者。寛政11年清武町に生まれ、幼少から父に漢学を学び、大坂・江戸に出て勉学に励む。後に、郷里飫肥藩の藩校振徳堂助教、幕府の昌平坂学問所教授をつとめ、幕末から明治時代に活躍した人財を育てる。 明治9年東京で没。77歳。 |
嘉永2年高岡町穆佐に生まれ、ビタミン発見の糸口となった脚気病の原因究明に努め予防方法を確立した。成医会講習所(後の東京慈恵会医科大学)を創立するなど医学研究に努め我が国最初の医学博士となり日本医学の発展に貢献した。 大正9年東京で没。71歳。 |
本名は繁。明治18年東郷町坪谷に生まれ、早稲田大学時代は北原白秋と同期。自然と旅を愛し旅情の歌人と呼ばれ、近代日本の短歌史上大きな足跡を残す。 生涯7000余首の歌を詠む。 昭和3年沼津市で没。43歳。 |
郷土の先人の遺徳を偲びその業績を顕彰し次代を担う青少年の道標となる銅像を建設して日本の大衆的歌人若山牧水像を各界各層の協力を得て建設することにした。 |
幾山河 こえさりゆかば 寂しさの はてなむ國ぞ けふも旅ゆく |
安政2年日南市飫肥に生まれる。 明治34年に外務大臣となり、その翌年に日英同盟協約を締結。日露戦争終結に当たっては主席全権として米国・ポーツマスで講和会議に臨み明治38年に講和条約を締結。明治を代表する外交官。 条約締結6年後の明治44年神奈川県葉山で没。57歳。 |
郷土の先人の遺徳を偲びその業績を顕彰し次代を担う青少年の道標となる銅像を建立して後生に残すため生誕150周年日露講和条約締結100周年を記念して明治を代表する外交官小村寿太郎像を各界各層の協力を得て建設することにした。 |