万葉の歌碑
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有間皇子史跡

有間皇子神社から200メートル西の藤白坂の上り口に行く。

紫 川

 紫川は、その名の由来をたずねると、上流の谷の石が紫色を帯びているからとも、村崎にあるからとも言われています。

 また、万葉集に『むらさきの名高の浦・・・』と詠んだ歌があります。

   『紫の名高の浦の愛子地(まなごつち)

      袖のみ触りて寝ずかなりなむ』

この他にも2首あります。

 これらの歌の「名高の浦」に「むらさきの」という枕詞がつけられているのは、紫は「貴(たっと)い」色として名高いので「名高」にかかる枕詞になったのでしょうか。

 名高にも紫川と呼ばれる川があったことは、本居宣長の『玉勝間』に紹介されており、名高浦へ注ぐ川を紫川と呼んだものでしょう。

海南市教育委員会

枝垂れ梅が咲いていた。


有間皇子史跡

 有間皇子は、孝徳天皇の皇子です。

 斉明4年(658年)11月に、謀反の疑いで捕らえられ、牟婁の湯(白浜の湯崎温泉)に行幸中の天皇のもとへ護送されました。

 中大兄皇子の尋問を受け、その帰り道に、この藤白坂で絞殺されました。皇子は19歳の若さであったと伝えられています。

 皇子が護送途中、自らの運命を悲しんで詠んだ歌が2首あり、そのうちの1首が、ここの歌碑に佐々木信綱博士の筆で刻まれています。

   『家にあれば笥に盛る飯を

      草枕旅にしあれば椎の葉に盛る』

海南市教育委員会

有間皇子の歌碑


   有間皇子御歌

家有者笥尓
盛飯乎草枕
旅尓之有者
椎之葉尓盛

『万葉集』(巻第二)の歌。

「有間皇子自傷結松枝歌二首」とある。

昭和27年(1952年)11月忌日、海南市教育委員会建立。

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