2021年京 都

豊国神社〜国家安康の銘鐘〜
indexにもどる

智積院から豊国神社へ。

豊国神社


 豊臣秀吉を祀る神社で、一般に「ホウコクさん」の名で人々に親しまれている。

 慶長3年(1598年)に63歳で亡くなった秀吉の遺体は、遺命により東山の阿弥陀ヶ峯に葬られ、その麓(現在の豊国廟太閤坦)には、広壮豪華な廟社が造営された。後陽成天皇より正一位の神階と豊国大明神の神号を賜り、慶長9年(1604年)8月の秀吉の七回忌には特に盛大な臨時祭礼が行われた。そのときの様子は豊国臨時祭礼図屏風(重要文化財)に詳しく描かれている。

 豊臣氏の滅亡後、その廟社は徳川幕府により廃祀されたが、明治13年(1880年)、旧方広寺大仏殿跡にあたる当地に社殿が再建され、別格官幣社として復興された。また、明治31年(1898年)には、荒廃していた廟墓も阿弥陀ヶ峯の頂上に再建された。

正面の唐門(国宝)は伏見城の遺構と伝え、二条城から南禅寺の金地院を経て、ここに移築されたもので、西本願寺、大徳寺の唐門とともに国宝三唐門の一つとされている。また、その両脇の石灯籠は、秀吉恩顧の大名が寄進したものである。

京都市

唐門(国宝)


豊臣秀吉の像


国家安康の銘鐘


 慶長19年(1614年)豊臣秀頼が、亡き父秀吉の追善の為造った鐘である。秀吉の追善の為と表向きにはなっているが、豊臣家の財力の消耗が狙いで徳川家康が秀頼に勧めて造らせたものである。

 撞木を挟み、この鐘の上部には東福寺の僧清韓の書いた銘文が刻まれており、その銘文の中の「国家安康」と「君臣豊楽」の八文字が家康の怒りをかった。「家康」の文字を二分し呪詛をはかり、豊臣家の幸福を祈念するものだ。という主張であった。勿論そういった意味は無く、「国家安康」は国家の安泰を願ったもので、「君臣豊楽」は君主も臣下も皆豊かで楽しく、といった意味である。これに対し、片桐且元はこの問題を解決すべく、家康のもとへ向かったが、面会すらさせてもらえず、状況は悪化し、大坂冬の陣へと向かっていった。全ては家康が豊臣家を滅亡させようととった策略であり、その裏では家康の政僧というべき天海と金地院崇伝と深い関係があったようだ。

 大坂夏の陣での豊臣家滅亡の後、鐘は徳川家より呪いの鐘とされ、地面に置き鳴らなくされてしまい、明治17年に寄進で鐘楼が建て直されるまで雨ざらしであった。その際現在の鐘楼の天井画が移築された。この天井画は元々伏見城の女性の化粧室の天井画であった。

2021年京 都〜に戻る