芭蕉の句碑

『奥の細道』北 陸


〜俳諧伝灯塚〜

出雲崎町尼瀬の高台に妙福寺という寺がある。


山門を入ると左手に「俳諧伝灯塚」があった。


宝暦5年(1755年)3月、近青庵北溟建立。

宝暦7年(1757年)3月、『俳諧伝灯塚』(北溟編)序。

碑面が磨滅して、どちらが正面かも分からない。

出雲崎町指定文化財である。

俳諧伝灯塚妙福寺境内

 元禄2年(1689年)7月、出雲崎に奥の細道の杖をとめて1泊した芭蕉は「荒海や佐渡によこたふ天河」の名句を残した。その後芭蕉門下二世の東華坊は2度までこの地を訪れた。三世盧元坊もまたここに杖を留めて感慨にふけった。出雲崎が生んだ俳人近青庵北溟は宝暦5年(1755年)3代にわたる俳人が当地で詠んだ句を刻して俳諧伝灯塚を建てたと伝えられている。

 新しい石碑は大正年間に再建されたものである。

碑 文

荒海や佐渡によこたふ天河
   芭蕉

雪に波の花やさそうて出雲崎
   盧元坊

五月雨の夕日や見せて出雲崎
   支考

 宝永5年(1708年)4月、各務支考は木曽から越後へ旅をする。

出雲崎

      聖衆院
東花坊

   五月雨の夕日や見せて出雲崎

    帆はしろしろと沖の涼風
   支考


 明治42年(1909年)6月19日、河東碧梧桐は弥彦で耐雪に迎えられ、出雲崎の耐雪宅に泊まっている。

 弥彦で耐雪に迎えられた。弥彦神社参詣、宮司某氏にも会した。

 同行の三人と別れて、雨中耐雪となお七里の浜伝いをして、寺泊、山田等を過ぎ、日暮れて遅く出雲崎に着いた。町長始め数人の予の歓迎会があった。耐雪宅泊。


 大正2年(1913年)10月8日、高浜虚子は出雲崎を訪れて耐雪庵に泊まっている。

      十月八日

 雨中耐雪、烏啼二君と越後鐡道に乘り出雲崎に向ふ。越後鐡道會社員たる久須美東馬、田村文吉、尾崎房藏諸氏の好意を受け、殊に木村慎三氏の案内の下に途中彌彦神社參拜。

 出雲崎着、烏啼君は平木旅館へ、余は耐雪庵へ。

 夜出雲崎圖書館の講演會に出席。講演といふ名のついたものを初めてする。

「北陸旅行の日と人」

新しい石碑


五月雨の夕日や見せて出雲崎
   東華坊

荒海や佐渡に横たふ天の川
   芭蕉翁

雪に波の花やさそうて出雲崎
   盧元坊

翁毎曰俳諧無古人豈無古人耶有宗鑑有守武貞徳傳貞室難波
宗因起一風其謂無古人者無古人以爲準則也雖然附襲都運連
歌之情而誹言連語之差別耳無姿則無其意之可以學道俳諧謂
無古人也亦宜于茲天和昔者芭蕉翁桃青初詠古池蛙飛句正風
體之眼而采於史之滑稽傳誹改俳我朝始爲俳諧元祖二世東華
坊才學通傳著述不倦辨滑稽之奥義補其法格而爲萬世之龜鑒
三世盧元坊東往西遊而教誡蕉門通志之人二十年于此矣當是
時俳諧之道可謂全盛今也幸我郷以有三師之遺詠刻于石者譬
如水之在地中無所往而三師之神不在也故吾輩深信而稱俳諧
伝燈塚  于時寶暦五年乙亥三月十二日近青菴北溟謹誌

大正11年(1922)3月、佐藤吉太郎建立。

佐藤吉太郎は俳号耐雪。

 大正14年(1925年)8月22日、荻原井泉水は出雲崎を訪れて佐藤耐雪から話を聞いている。

   いにしへに変らぬものはありそ海と

      むかひに見ゆる佐渡の島なり

良寛もこう詠っている、前面は、海へじかに接している。で、町は山と海との間に挿まれて細長く、東北から西南へ、一すじに伸びている。石を載せた板屋根の低い家が多く、町というよりも、漁村という感じを多く受けるが、昔は、羽越の海岸としては、七尾、酒田と併称せられたほどの物資の集散地であり、殊にここは幕府から直接の代官が置かれてあったので、一つの文化の中心をなし、従って文人墨客の杖を曳くものが絶えなかったのだ。そういう話を私達はこの地の人、佐藤耐雪氏から聞きながら、町裏のとある小高みの丘に案内されていたのだった。

『随筆芭蕉』(出雲崎の夕)

妙福寺


日蓮宗の寺である。

 昭和40年(1965年)4月、山口誓子は妙福寺の句碑を訪ねた。

 私は、高い石階を登って、妙福寺の句碑も見た。

五月雨の夕日や見せて出雲崎
   東華坊

荒海や佐渡によこたふ天河
   芭蕉

雪に波の花やさそうて出雲崎
   盧元坊

と連記されている。東華坊は支考盧元坊は支考門。

 風蝕した旧碑は宝永五年の建立。それの新碑を私は見たのだ。

 万葉仮名などの入っていない、いい書だ。

 私はこの句碑の拓本を見たが、拓本というものは句碑を正しく、美しくは伝えていない。句碑には彫りという立体性がある。拓本はその立体性を平面でしか現わせないからだ。

 しかし、書は拓本でわかる。いい書だ。

『句碑をたずねて』(奥の細道)

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