2022年高 知

浦戸城趾〜忠魂不滅の碑〜
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桂浜から地蔵前バス停まで歩く。

浦戸城趾碑


 鎌倉時代末期に、この地の豪族の城として築かれ、戦国期には長岡郡本山から高知平野に進出した本山氏の勢力下におかれた。 永禄3年(1560年)長宗我部国親が当城を攻めて奪い、居城長岡郡岡豊城の支城とした。

 国親あとを継いだ元親は天正16年(1588年)居城を一旦高坂城に移した後、天正19年頃当城に移し、滅亡まで約10年間、長宗我部氏の本城となった。慶長5年(1600年)関ヶ原の合戦で豊臣方についた元親の子盛親は除封され、土佐は山内一豊に与えられた。

 長宗我部氏の遺臣一領具足たちの浦戸一揆が鎮定され、慶長6年9月から高知城の築城に取り掛かり、慶長8年には新城に移り当城は廃城となった。

桂浜花街道


石丸神社


 慶長5年(1600年)関ヶ原の戦後、遠州(静岡県)掛川城主山内一豊土佐の国主となる。

 長宗我部の浦戸城(龍馬館建設地)明け渡しに際し「旧主のためにせめて一郡でも」と主張し頑強に抵抗したが悉く討ちとられ、12月5日浦戸城は接収された。この抵抗した一領具足の273人の首は塩漬けにして12月晦日、大阪の井伊直政のもとへ送られた。その胴体を埋葬し後に石丸塚として祀られたところ(西北20米)に地元の有志(5名)によって建立された小祠が「石丸神社」である。

 昭和33年桂浜観光道路建設の際、現在地に移された。

南浦地蔵尊


 この六地蔵は、安芸郡西分村(現、芸西村西分)長谷寄地蔵堂の堀川善明尼が、長浜雪蹊寺の山本玄峰師に仕え、修行中、一領具足の浦戸一揆の悲劇を知り、その霊を鎮めようと地蔵尊の建立を発願し、始め楠瀬如龍の後援を受け托鉢浄財をするも計画半ば、昭和9年12月如龍が長逝のため、故人と懇意であった当時の三柏園主、国澤熊之助か意志を継ぎ、野村茂久馬らの協力を得て3年有余を経て昭和10年(1935年)4月7日盛大な開眼式が行われた。

鐘楼跡


 昭和14年11月12日および14日発行の高知新聞及び土陽新聞の記事によれば、堀川善明尼の発意による阿弥陀如来像・六体地蔵尊像建立後、施主国澤熊之助氏、工作宮地太郎氏により昭和14年(11月15日落成式挙行)に建設されたものである。しかしながら、長年の風雨により廃屋状態となる。

 喚鐘については所在不明であったが、戦時中の国からの金属供出要請に、野村茂久馬翁がその喚鐘をはずし、国澤熊之助氏に処方を託し保管中である旨を、令和元年6月27日に国澤熊之助氏の孫(娘の子)にあたる前田允子(よしこ)さんが当会に申し出た。喚鐘は当会に寄贈され保存することになった。

 この鐘楼の上部には、長宗我部家の家紋である三葉かたばみの欠けた部分が残る。

長宗我部顕彰会

喚 鐘


五輪塔


 烈士散華の後、現地に建てられていたものを何時の頃からか要法寺に移転される。時移り国澤熊之助氏により昭和14年鐘楼建設時、再びもとの場所へ移設される。

 この際、堀川善明尼の主導にて県下中学・女学校生徒の大般若の写経18,669巻が台座に納められている。

長宗我部顕彰会

一領具足供養碑


 慶長5年(1600年)関ヶ原の戦後、浦戸城明け渡しを拒んだ旧臣の一領具足達は、重役家臣団と対立して戦い物頭竹内惣左衛門始め273人が殺され、ここに長宗我部400年の栄光の幕を閉じた。この土地は一領具足の指導者吉川善介・徳井左亀之助・池田又兵衛 ・野村孫右衛門・福良助兵衛・歳岡彦兵衛・下元十兵衛・近藤五兵衛が常なる役所に集まり居て評定中を襲われて討たれた所で、首は他の者とともに大阪に送られ胴体は石丸塚としてここに葬られた。

 世にこれを浦戸一揆という。

忠魂不滅の碑


土井晩翠の詩だが、よく読めなかった。

 昭和14年(1939年)、273士の340年の遠忌に野村茂久馬翁によって建立された。

詩は「一領具足の香を留む 誉れは千秋嗚呼朽ちじ」と格調高く結ばれて、松韻潮騒と相和し、佇む者の胸にあつく響くものがある。

地蔵前バス停前の海


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