君の工学は君自身を益せずして 国家と社会と民衆とを永久に益した のであります 旧友内村鑑三の 追悼文より |
廣井勇は今から160年ほど前に、現在の佐川町上郷に生まれました。植物学者牧野富太郎と同い年で郷校「名教館(めいこうかん)」で共に勉強しました。8才で父を亡くし、おじさんを頼って一人で上京し、15才のとき、授業料が無料の北海道の札幌農学校に第2期生として入学しています。 同級生には生涯の友となる内村鑑三、新渡戸稲造がいました。卒業後貯金をして21才でアメリカに留学し、ミシシッピ川の河川工事などで働きながら最先端の土木技術を学びました。その時に「プレートガーダーコンストラクション」という橋を造る手引き書を英語で書いて出版し、優れた本であったためアメリカの多くの工事現場や学校で使われました。 27才で帰国した廣井は、北海道の小樽港湾事務所の初代所長になり、小樽港を日本海の荒波から守る北防波堤を建設しました。セメントに火山灰を混ぜたコンクリートでブロックを作り、そのブロックを斜め積みにする工夫をして、経済的で長持ちする丈夫な浩造として、完成後100年以上たった今でも、立派に防波堤の役目を果たしています。 これらの業績は高く評価され、37才の若さで東京帝国大学工科大学の先生になりました。そして最大の業績は、先生として20年間に600人近い優秀な若者を世に送り出したことです。廣井は、遅刻を許さず、無駄使いをきらい、正義感を持ち、学生の長所を生かす指導を行いました。 教え子には、当時世界最大級の烏山頭ダムを造り台湾南部を穀倉地帯に変えた八田與一(石川県)を始め、伊藤長右衛門、青山士、久保田豊など、四国出身者では堀見末子(佐川町)、宮本武之輔(愛媛県)、増田淳(香川県)らがいます。彼らは、出世することよりも民衆のために生きることを学び、港や堤防、ダム、道路、橋など多くの土木工事に力を注ぎ、日本の近代化に大きく貢献したのです。 四国地方は毎年のように台風などによる暴風雨災害が発生しており、南海トラフ大地震の発生も予測されています。「近代土木の礎を築いた廣井の生き方を多くのみなさんに学んでいただければと願っています。
廣井勇を顕彰する会 |