草を塀に木の根を枕 花を恋して九十年 |
明治の朝のうた声に 若者意氣にたつべしと 大志をを燃やしふるさとを 出ずはわかきの桜花 学びの森は深くして ゆくべき道もあらずして 草を褥に木の根をば 枕にひとりわけてゆく 荒野につけしあたらしき みちのしるべはやまとぐさ 愛の証しは世の中の あらん限りやすえこ笹 花を恋して九十年 はなあればこそ吾もあり 草木の精とうまれきし その名は牧野富太郎 |
彼末亀代子 生涯を教育に捧げ牧野富太郎博士を敬慕すること厚し その遺志に従い ここに胸像を建つ |
結網學人・牧野富太郎 文久2年(1862年)−昭和32年(1957年) 土佐佐川町の豪商に生る 幼時より植物を好み 独学 苦難に耐え 理学博士となる。植物学雑誌などを創刊 又牧野植物図鑑などを著し 多くの新植物を記録し 日本の植物の父と讃えられ 第1回文化功労者となる。その偉業を顕彰するため昭和31年高知県立牧野植物園を設立し 以後園地 施設の拡充をつゞけ 一応の整備をみたので こゝに多くのひとびとの浄財を得て 博士のありし日の姿を建て その偉業をしのび その功績を後世に残す。 |
雨降ればあ じさい色に岩 ぬれて人の情 のしみ通る かな |
無類の花好きの2代将軍秀忠が、戸田ノ原に出向いたときに、この花に特に興味を示し、それを見たお供が持ち帰って鉢植えしたのが始まりと伝えられています。 |
井上浩博士は牧野富太郎博士と共に高知県が生んだ優れた植物分類学者であり、わが国の蘚苔類学派」に不滅の金字塔をうち建てた。 井上博士は昭和7年3月30日長岡郡稲生で出生、長じて27年4月東京教育大学理学部に入学。31年4月同大学大学院理学研究科に進学、36年3月「ゼニゴケ類植物の胞子発芽および葉状体の初期発生に関する研究」で理学博士の学位を取得した。37年10月国立科学博物館研究官となり、58年10月同博物館研究部長に就任した。 苔類の分類、特にハネゴケ科の研究を精力的に行ない、世界的権威として名を成した。短い生涯に350編を越える多数の論文を発表すると共に学会の運営や後進の育成に尽力した。卓越した研究能力と優れた政治的手腕が世界中の研究者に認められ。昭和56年8月国際蘚苔類学会会長に選ばれ、晩年まで世界の学会をリードした。 これらの功績により平成元年12月勲四等に叙せられ瑞宝章を授章した。平成元年12月29日永眠、享年57才であった。 |
家守りし妻の恵みや我が学び 世の中のあらむかぎりやすゑ子笹 |
牧野博士は昭和2年仙台で新しい笹をみつけ亡き妻壽衛子夫人の内助の功をしのびその名を笹につけ永久に感謝の心を殘しました |